その勝負は自分で選んだもの?
今日読み終えたのはこちら。
〈彗星のように現れた韓国文学の異端児〉としてデビューした、パク・ミンギュの『亡き王女のパヴァーヌ』です。
1980年代の韓国で青春を、それぞれ闇を抱えながら過ごした男2人女1人の話。
1人の男と1人の女の子の恋愛をベースに話がすすむのですが、その女の子の抱えている闇というのが、顔が不細工だということ。
その女の子が顔のせいで今まで受けてきた理不尽な仕打ちや、あまりにも心無い言動や、そんな仕打ちを受けている彼女への無関心が、淡々として口調で語られます。
それが本当に辛い。
読んでいて色々な怒りが湧きました。
「女は不細工いじりされるけど、男が不細工でも大していじられなくない?!」
とか。
「女だからってなんで綺麗にしてなきゃいけないのさ。ある程度の年齢過ぎたらすっぴんは失礼っておかしくない?明日すっぴんで出社したろか」
とか。
まぁすっぴんで出社する勇気はないんですけど…。
だいたいすっぴんが恥ずかしいってなんなんだろう。なんで生まれた時のままの顔を恥ずかしがらないといけないのだ。
そんな彼女に恋をした男は思う、それは全部資本主義のせいだって。
自分は劣ってると思わせて、恥ずかしいと思わせて、誰かを憧れさせて、どんどん消費を促して、社会をまわすためだって。
資本主義の車輪は恥ずかしさで、資本主義の動力は羨ましさだった。同じになろうともがき、隠そうと必死になる女の子たちを見ながら、しかもこれは自家発電だ、と思うのだった。恥ずかしさと羨ましさがある限り
人は決して
資本主義のしがらみから逃れることはできない。
資本主義め!
パク・ミンギュは、参加表明もしていないのに世の中や社会が作り上げた競技に強制参加されて、ルールも試合展開もわからず知らぬ間に負けたことになり、負け組居住区域にぎゅっと押し込められた人たちを書く。
『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』も『ピンポン』も、勝ち組とされる人たちに虐げられている人たちを書いていた。
でもそうして書いてくれるまで、私は気づかなかった。自分がどんな社会に生きているのかも、知らぬ間になんだか理不尽なレースに強制参加させられていたことも。
自分の納得のいくルールの中で当事者として自分のこととして戦っていけたならそれはとても素敵なことだけど、傍観者になって自分の置かれている状況を俯瞰し、納得のいかない腑に落ちない戦いだったらそこから距離を置く勇気を持ちたい。
パク・ミンギュは今わたしたちがどんな世界にいるのか教えてくれる。
知らぬ間に戦っている自分に気づかせてくれる。
読んだ後は、いつのまにか力が入っていた体が膝カックンされたかのようにゆるむ。
せっかくパク・ミンギュと同時代に生きているのに読まないなんてもったいないと思うのです。