本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

この小説、楽しく読んでいいの?

先週の日曜日、「贅沢な読書会」深緑野分さんゲスト回に参加してきました。

(この読書会については後でご説明します)

 

深緑さんは瀧井朝世さんの『偏愛読書トライアングル』という書評本を読んで知ったのですが、そこに書かれていた瀧井さんが深緑さんのデビュー作『オーブランの少女』を読み、その後インタビューでの初対面で「今までどこにいたの?早く会いたかったよ!」と言ったエピソードが大好きで、それ以来気になる作家さんでした。

そんなふうに思える作家さんと出会えることって本好きとしてなんて幸福なことだろうなんて素敵なファンのなり方なんだろうと思って、それから深緑さんのことが気になり、『オーブランの少女』を読もうと思っていたのですが、なかなか時間が取れず。

 

そんなところに「贅沢な読書会」に深緑さんがゲストでいらっしゃるというお知らせが。

課題図書は『ベルリンは晴れているか』

私は昔からナチス政権のことやホロコーストのことに興味があって、それを題材にしている小説があるとつい目を止めてしまいます。

どうしてそんな政権が出来上がるまでになったのか、どうして人が人にそんなことができいるのか、その当時の人々は一体どんな精神状態だったのか。

そういったことが気になって、いくつか小説を読んできたのですが、いつからか読んだ後にいつも同じモヤモヤを抱える様に。

でもこの読書会に参加して作家さん側からのお話を聞くことで、モヤモヤを晴らすヒントがもらえれば、と思って参加をすることにしました。

 

 目次

 

『ベルリンは晴れているか』

 

舞台は、1945年7月終戦直後のベルリンです。

主人公は米軍の兵員食堂でウェイトレスとして働くアウグステ。

彼女の恩人がソ連領域で米国製の歯磨き粉に含まれた毒により不審な死を遂げることから物語は始まり、アウグステは彼の甥に訃報を伝えるため戦争の傷跡が街にも人々にもまだ生々しく残る中、ベルリンを東奔西走する旅をはじめます。

 

アウグステがベルリンの街中を駆け回り、たくさんの人達と出会うのですがその人たちは国籍も様々、人種も様々、それぞれ秘めている思惑もそれぞれが抱える障害も様々。

とにかく様々な人が出てくるのだけど、その人たちがそれぞれきちんとその人の人生や生活や内面を背負って現れる。

きちんと実像が結ばれていて、本当にこういう人達が居たのだと思わせてくれます。

 

だから物語が重厚になるし、当時のベルリンがどんな状況だったのかどんな人たちがどんな思いで暮らしていたのかがわかる。

この戦争がどういうものだったのかがわかる。

ミステリー仕立てにもなっているし、話がどんどん展開していくのでページを捲る手が止まらない。

 

登場人物たちが個性的で面白いし、話の展開にも夢中になってほとんど1日で読んでしまいました。

 

でもそれでよかったのでしょうか。

 

これは私がナチス政権を題材に扱った小説や、戦争ものの小説を読んだ後にいつも思うことです。

話に引き込まれて夢中になって読み、「面白かったなー」「すごい本だったなー」と本を閉じる。

それでいいのか。

私が「面白かった」「すごかった」と思う本は、完全なフィクションではありません。

史実を元に書かれたものです。

だから本に書かれている様なことは実際あったし登場人物達と同じ思いをした人は確実に存在する。

それを面白いと思っていいのだろうか。

 

中でもナチス政権を題材に扱ったものは他の戦争に比べると多い様な気がします。

ユダヤ人迫害からどう逃れるか、ユダヤ人達をどう匿うのか、といった話はどうしたってスリリングになりますし、ホロコーストや収容所の生活を描けばどうしたってそこには人間ドラマが生まれます。

だから映画や小説になりやすいのではないか商業的に成功しやすいから作られるのではないか。そんな思いで作られたものばかりではないだろうけど、それにしたって面白いと思っていいのだろうか。

 

ナチスもの戦争ものを読んだ後にいつも思う様なことを思ってしまって、そしていつものようにわからなくなりました。

 

 

ベルリンは晴れているか (単行本)

ベルリンは晴れているか (単行本)

 

 

 

半分のぼった黄色い太陽

半分のぼった黄色い太陽

 

 

 

アウシュヴィッツの図書係

アウシュヴィッツの図書係

 

 

 

スウィングしなけりゃ意味がない

スウィングしなけりゃ意味がない

 

 

 

『戦場のコックたち』

 次に読んだ深緑さんの作品は直木賞候補にもなった『戦場のコックたち』

この作品もですね…面白かった…。

 

この物語は『ベルリンは晴れているか』と同時代同じ第二次世界大戦の話ですが、こちらはノルマンディー上陸作戦に参加した米軍側の視点から書かれた話です。

 

戦地が舞台なのだけど、ジャンルとしては日常の謎を扱ったミステリー。

つまり戦地での日常が書かれています。

 

 日常の謎を扱っているとはいえやはりそこは戦場。日常が独特。

ノルマンディー上陸作戦の後不要になったパラシュートを集めてる怪しい兵士がいたり600個の粉末卵が一夜にして消えたり。

 

パラシュートに絹のものと化繊のものがあることを知っていましたか?粉末卵がどんな味がするか知っていますか?

私はもちろん全く知りませんでした。この小説を読まなければ知り得なかったことだと思います。

 

そうした戦時の知識が日常の謎という書き方を通して頭の中に入ってくる。

これらはきっと教科書で読んだのでは残り得ない知識の残り方で、そこに物語としての強みを感じました。

 

だからと言って面白かったと言っていいのかどうかには疑問が残る。

知識が増えたから、戦争の勉強ができたからいいのでしょうか。

 

巻末の参考文献参考資料を見ればわかる様に深緑さんは資料を読み込んで、専門家の方の話を聞いて、とにかく調べ物を沢山した上で小説を完成させています。

そこからは真摯に誠実に、現実に起きたことと向き合って書こうとしていることが伝わってきます。

でもだからっていいんでしょうか。

作家が真摯に資料と向き合って、そこで得た知識を読者に伝わりやすい様にとエンタメ要素を盛り込んで話してくれているのだからと言って楽しんでいいことになるのだろうか。

  

 それとも戦争からそんなに時間が経っていないからこんな罪悪感があるのだろうか。

司馬遼太郎の『関ヶ原』なら楽しく読んでいいのか。そういうことか。そういうことじゃないのか。

話がずれてきている気がする。いや大してずれていないかもしれない。もうよくわからない。

 

 

戦場のコックたち

戦場のコックたち

 

 

 

贅沢な読書会

贅沢な読書会はほぼ毎月横浜みなとみらいで開催されている読書会です。

前編と後編に分かれていて、前編はモデレーターの瀧井朝世さんを中心に参加者と課題本について話します。そして次の週の後編では課題本を書かれた作家さんご本人が参加され、前編ででた疑問感想を直接伝えられるという、本当に贅沢な読書会です。

 

 

【講座紹介】「贅沢な読書会」とは? | BUKATSUDO

 

 

とはいえ今回の読書会、私は前編を欠席してしまい参加できたのは後編だけだったのですけど…。

私のモヤモヤについて参加者の皆さんと話せたら色々と参考になったのに、と残念です。

 

しかし後編で深緑さんに直接私のモヤモヤについて話せたこと、そのことについて深緑さんの考えを聞けたことはとても貴重な経験になりました。

(そこでどんなことを話してもらったのかは、正確に書ける自信がないのであとで引用する深緑さんのツイートを読んでいただくとして…)

 

この読書会に参加して作家側からのお話を聞いたら何かヒントが得られて、モヤモヤが晴れるかも消えるかも…という考えは甘いものでした。

 

それは今もモヤモヤとしたままだけれど、お話を聞いた後ではあやふやなものではなく、もっと確かで持ち重りのする大事なモヤモヤになりました。

そもそもそのモヤモヤとしたものは消していいものではなかったのです。

 

興味本位で知りたいと思っているわけではない、自分の快楽のためにその小説を消費しているのではない、だから小説を読んだ後「面白かった」と思ってモヤモヤするのは当然のことで、まず私が知るべきなのはモヤモヤを晴らす方法ではなく、そもそもなぜそれについて興味があるのか、なぜ知りたいと思うのかでした。

 

モヤモヤし続ける筋力

そのことに気付いたのは読書会後の深緑さんのこのツイートを読んでからでした。

(このツイートはスレッドになっていますので続きもぜひご覧ください)

 

 

このツイートを読むまでなぜナチスホロコーストに興味があって知りたいと思うのか、あまり考えたことがありませんでした。

そして私はなんだかよくわからないものに巻き込まれてなんだかよくわからないまま死ぬっていうことがすごく嫌なんだな、ということに気付きました。

ナチス政権下で行われてユダヤ人迫害ホロコーストは、なぜそんなことが行われたのか全く理解できない、私にとってなんだかよくわからないものの最たるものだったのです。

 

他にもそのなんだかよくわからないはあるかもしれない。いつ何時どこからそのなんだかよくわからないは襲って来るのかわからない。

だから対岸の火事なんてない、遠い国で昔起ったことだから自分とは関係ないとはいえない。

でもそんなことを考え出したらキリがない。全部を知るわけにはいかない。

だからせめて自分が知りたいと思った欲求には素直でいたい。

モヤモヤするかもしれない、罪悪感を抱くかもしれない。それでも知りたい。

 

そこまで考えたのは初めてでした。

 

そうは言ってもそれを知ることはとても困難です。

だからこそモヤモヤし続ける力が必要で、むしろモヤモヤすることがなくなったら意味がありません。

でも偽善でモヤモヤしても意味がない。

(きっとこの先、ナチスものや戦争ものの小説を読んで「面白かった」と思ってしまってモヤモヤして、モヤモヤした自分に安心して、安心した自分に違和感を感じるんだろうなと思ってしまって、あぁなんてややこしい)

モヤモヤすることは大事なのだと知ってしまった自分はこれから、正しく真っ当に罪悪感を抱いてモヤモヤできるのかという新たなモヤモヤが生まれてしまいましたが、「それは本当に正しいのか」、「正しさとはなんなのか」考え続けることにはどうしたってモヤモヤは付き物なのだと知ることができました。

 

今は正しく真っ当にモヤモヤし続ける筋力が欲しいです。

どういうそれが正しく真っ当なモヤモヤなのかモヤモヤしてもいますが。