雪が降りはじめると、人々はやっていたことを止めてしばらく雪に見入る。そこがバスの中なら、しばらく顔を上げて窓の外を見つめる。音もなく、いかなる喜びも哀しみもなく、霏々として雪が舞い沈むとき、やがて数千数万の雪片が通りを黙々と埋めてゆくとき、もう見守ることをやめ、そこから顔をそらす人々がいる。
白はどこまで白なのだろう。
黒や赤や青や黄が徐々に足されていって白が白ではなくなるその時は、白を白だと感じている時間は人それぞれだ。
純粋な悲しみを感じる時間は短い。
悲しみは悲しみのままではいられない。
自己憐憫や美談や教訓にかわっていってしまう。
それでも胸の中には、なにものにも染められない新雪の様な悲しみが降り続いていて、それはけして溶けることがない。
日々生きていく中で表層は染まっていくのかもしれない。溶けていくのかもしれない。
けれどいつだって深層の奥の奥にはそれがあって、いつでもそこへ帰っていける。帰っていってしまえる。
『ギリシャ語の時間』もそうだったけれど、ハン・ガンの混じりけがなく純度の高い悲しみや痛みを書いた文章には胸を突かれる。
ごまかしいようがない、なにものも混じることができない、ただそれだけの悲しみや痛み。