久しぶりに韓国文学を読んだ。
やっぱり好きだった。
同じ作家さんの作品でなくても、どれもいい。
もう10人程の韓国の作家さんの作品を読んできたけどどれも好きで、「これはあんまり…」と思うものがなかった。
これはなんなんだろう。
いい作品ばかり日本で翻訳されているからなのか。
韓国文学のなにが私はこんなに好きなんだろう。
そう思っていたけれど、三宅香帆さんが書評連載で「韓国文学の書く痛みは半端ない」と書いていて、すーっと腑に落ちた。
たしかに韓国文学は痛い。
ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』も、パク・ミンギュの『亡き王女のためのパヴァーヌ』も、ファン・ジョンウンの『誰も知らない』もどれも痛い。
痛い、けれど読みたい。読んでしまう。
私は自分の痛みの正体を知りたかったのかもしれない。
それをみせてくれるから韓国文学を読んできたのかもしれない。
昨日読み終わったチェ・ウニョンの『ショウコの微笑』もそうだった。
「去る者は日々に疎し」とか、「遠くならば薄くなる」とか言うが、ショウコの場合は違った。自分の生活に絶対入り込んでこられない人、顔も見えず声も聞こえない遠い場所にいる人のことしか、ショウコは友達と呼べなかった
高校の文化交流で日本から韓国へやってきたショウコは、私の家に1週間滞在した。帰国後に送り続けられた彼女の手紙は、高校卒業間近にぷっつり途絶えてしまう。
約十年を経てショウコと再会した私は、彼女がつらい日々を過ごしていたと知る。
表題作のほか時代背景も舞台も異なる多彩な作品を収録。
いずれの作品の登場人物も哀しみ、苦しみを抱えながら他者と対話し、かかわることで、自らの人生に向き合おうとする。
時と場を越えて寄り添う7つの物語。
この作品もやるせなさ、どこにも行き場のないような苦しみを言葉にしてくれて、読んでいると辛くなるけどそういう言葉を求めてて、そういう言葉が沁み入ってきて私の行き場のなかった気持ちと共鳴しているようだった。
それは遠くの友達のように近かった。
その言葉は、普段は話せないような隠しておきたい感情や、話したからってどうにもならない、ただ相手を困らせるだけどの感情を慎重にしまっている場所まで、すーっと入り込んでくる。
それはショウコの友達のようだ。
日常が重ならず、会ったことのない人、これからも会うこともないだろう人にだけいえる気持ち。
そんな人にだけ見せることができる自分。
私にとって韓国文学は、本は、そんな遠くの友達のようだと思った。