固くしばってある袋の口を少しだけひろげてなかの空気を吸いこむと、あのクリスマスの日のできごとや、それ以外の日々のことまで思いだされて、いつまでもスーハースーハーしながら泣いたり笑ったりできるのだ。もうとっくに、お好み焼きのにおいは消えてしまっているけれど。
「白いセーター」
今村夏子さんの小説を読むと、みぞおちあたりがざわざわしたりぞっとしたりして落ち着かなくなる。
でもその感覚に簡単に答えや居場所を与えてくれるようなことはない。
簡単にケリをつけてわかった気になること、終わらせることはない。
読み終わった後もそのざわざわは緩やかに続いている。
それがすごく真っ当なことに思える。
今村夏子さんの新作短編集『父と私の桜尾通り商店街』もやはりいきなりそんなざわざわで始まった。
理不尽な仕打ちを受けた人が報われないまま、誰かに慰められることもいたわってもらうこともなく、そのままなんとなく日常に埋もれていく。
報復するわけじゃない、誰かの暖かさで傷が塞がるわけじゃない。
ただ自分の生ぬるい日常の中でその憤りが薄まって行くのを待つだけ。
自分と同じ憤りを持った主人公が、小説の中で報復したり癒されたりする様を読むことによってその感情が収まることがあるけど、この本の登場人物たちにはそれがない。
話が終わっても収まった感じがしない。不穏な始まりを予感させる終わり方ばかりで、誰かが救われたという感じがしない。
だからこそ生々しくてリアルで、やっぱり真っ当なことに思えて、こっちが本当というような気がする。