枕元に置いて寝る前や、朝起きたけど布団から出る気がわかない時に、ちまちま読んでいるのでなかなか読み進められませんが、この速度でゆっくり読むの贅沢でいい感じ。
目次
百人一首10番
今日は これやこの 行くも帰るも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関 についてです。
田辺さんの現代語訳はこちら。
これがかの 有名な逢坂の関よ
東くだりの旅人も
都へ帰る旅人も
知る人も知らぬ人も
別れては逢い
逢うては別れ してゆき交う
人の世の別れと出会いを暗示するのか
その名も 逢坂の関
この10番の一首は百人一首の中でも代表的なもので、親しみやすい歌だと思います。
作者の蝉丸は十世紀の人ですが、今では馴染みの無くなってしまった自然を歌ったものや、当時の風習にのっとった恋を歌ったものではなく、人々が行き交う情景を描いたこの歌は現代を生きる私たちにも頭の中でイメージしやすいのがその理由ではないでしょうか。
逢坂の関≒渋谷のスクランブル交差点?
逢坂の関は現代でいうと渋谷のスクランブル交差点によく例えられています。
この歌では「知る人も知らぬ人も別れては逢い逢うては別れ」とありますが、渋谷のスクランブル交差点を頭に浮かべてみると、「知る人も知らぬ人も」というより、そのほとんどがお互いに「知らぬ人」なのではないでしょうか。
では知らぬ人と逢うては別れるということはどういうことか。
それは行き交う人と言葉を交わすことではなく、その人に束の間思いをはせること。
目の前を通るすぎるだけの人に対して、これからどこへゆこうといているのかどこからきたのか少しの間だけ自分の意識に留めて、次の瞬間には全く別のことを考えている。
そうした意識の流れです。
それはほんの束の間のことです。あまり一人の人に執着して追っかけすぎると、この歌の軽さ、心地よい侘しさとはずれてしまう。
逢坂の関≒日本橋?
日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。
この『草枕』の主人公が考えるように、行き交う人々の内面をありありと思い浮かべるように見詰めてしまったら確かに苦しいでしょう。
大学進学を機に上京した友達が、東京の人混みの中にいると寂しくなると言っていました。
これまであまり馴染みのなかった沢山の人の中で、知らない人ばかりの中で、たった一人でいるということに寂しさを感じるのはよくわかります。
でもそう思うのと同時に、知っている人しかいないところで生活するのも窮屈で息苦しいだろうな、とも思いました。
それは『草枕』の主人公のいうような生きづらさです。
寂しさの中のきらきら
沢山の人が行き交う中で寂しさを感じてしまうこともあるでしょう。
でも寂しいながらもきらきらしたものをそこに感じることもできると思います。
知らない人を見て、自分では知り得ないその人の内面や人生や、その人がなにを大事に思う人なのか、少しの間問いかける。
その問いに答えはないし、出さなくていい。自分には知り得ないものがある。その余白を感じる。
知らぬ人であい、知らぬ人でわかれるから人生の奥行きや人間の深遠さがきらきらとした余白を持って見えてくるのだと思います。
この百人一首10番の歌にはそんな知らない人との出会いと別れに潜む小さな輝きが詰まっているようで百人一首の中でも特に好きな一首です。