本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

健やかなる時も病める時も適度な距離感を

「健やかなる時も病める時も適度な距離感を」

そんな言葉がふと浮かんできた時があった。

なぜそんな言葉が浮かんだのか、その前に何を考えていたのかは覚えていない。

 

しばらく忘れていたけれど、私なりの真実味を帯びたその言葉をまた思い出したのは、高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』、町屋良平の『愛が嫌い』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』の3冊を読んだから。

 

この3冊はどれも、踏み込み過ぎないし、過度に踏み込ませることもしない、適度な距離感で、穏やかに離れてそこにいるような佇まいがある作品だった。

 

 

 

高山羽根子 『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』

 

今回の芥川賞候補にもなったこの作品は全てを語っていない感じがする。

主人公と作者と読者の距離感が絶妙なバランスで受け取りやすいし、少し物足りないような読後感が余韻となって漂っている感じが味わい深い。

 

この小説では、主人公の人生に大きな爪痕を残しただろうある出来事が、最後の最後になってあっさりと放り出されるようにして読者に知らされる。それが現実の人間同士の関係性にすごく似ているな、と思った。

小説を読むように、現実に存在する誰かの人生や生活や日々感じていること、考えていることに触れることはまずない。

現実にいる誰かは小説の登場人物のように饒舌でもないし言語化能力が高いわけでもない。現実の誰かについて三人称を使って描写してくれる、説明してくれる誰か、神の視点があるわけでもない。

 

主人公についてあまり知らされないこと、唐突に主人公について知らされることが、主人公と私、ひいては小説と私の関係性の現実味を高めている。

 

小説の主人公と読者の私との距離感が現実いる誰かと私の距離感に似ていて、そのことがこの作品と私を近しいものにした。

 

 

カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

 

 

 

町屋良平『愛が嫌い』

町屋さんはもともとそういうことが得意な作家さんではあるけど、この作品ではこれまでの作品よりさらに、言葉として形になる前のおぼろげでふわふわとしたものが言葉になっているような気がした。

どうしたらそんなことができるのだろう。言葉にしたら必ず何かが溢れてしまうのに、何も溢さず、言葉という形に無理に納めることもなく、言葉になる前の意識や感情を言葉にするような、そんなことがなぜできるのだろう。

考えると途方もないような、遥かな気持ちになる。

言葉に出来ないを言葉にするって矛盾に何も違和感がない。感覚が言葉を超えて伝わってくる。

 

この『愛が嫌い』は短編集なのだけれど、「しずけさ」という短編に特にそれを感じた。

この短編の主な登場人物は、2人。

心を病み会社にいけず家に引きこもりがちになるも深夜の散歩が習慣になっている大人と、両親は優しくて虐待を受けているというわけではないけれど深夜のある時間帯は家から追い出される子供の。

その2人が深夜の川辺で会話をしたりしなかったりする。

 

この短編には本当に親しい人との何も言葉を交わさない無音で穏やかな時間が流れてて、そこがすごく好きだ。

何も言葉を交わさないし、お互い何を考えてるのか感じてるのかわからないけど、それを無理に知ろうともしないし、ただ一緒にいて満たされてる感じ、その距離感が穏やかで心地よくて、すっと入り込まれてしまった。

 

 

愛が嫌い

愛が嫌い

 

 

 

 

 ローベルト・ゼーターラー『ある一生』

 

ある男の一生を書いた150ページ程の小説。『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』「しずけさ」と同じでこちらも短い。

短いけれど他の2作品と違って「ひとりの人間の生涯」を書いた作品。

人生の一部だけを書いているのではなく、人生に起きたほぼ全てを書いている作品だけど短い。

それは、この作品もまた、寡黙といっていいような主人公で「俺の話も聞け!」という感じが全くないからだと思う。

淡々と、時には淡々としすぎているのではないかと思うほど、淡々と自分の人生に起きた出来事を羅列していく。

まるでなんでもないことのように普通の顔をして羅列されているそれらは、決して平凡ではない。

 

恵まれているとは言えない生まれと育ち、妻とのロマンチックな思い出と劇的な別れ、同僚との死別、戦争後の捕虜体験。

書こうと思えば、上下巻にもなりそうな男の一生が淡々と語られていく。

だけどそこからは主人公の感情や人生の機微が浮かび上がってくる。

ひとつひとつの感情が手に取るようにわかるとか、痛いほどわかるとか、それらが強く迫ってくるわけではなかったけれど、だからこそ、一人の人間の生涯を近くでずっと見守っているような、ずっと寄り添ってきたような読後だった。

 

 

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

 

おわりに

「健やかなる時も病める時も適度な距離感を」

この言葉は少し冷めているように聞こえるかもしれない。

だけどやっぱり大事だと思うんだ、距離感って。

 

「私以上に喜び、私以上に悲しんでくれる人」という言葉に対して私はあまりいい感情を持てない。

なんだか信用がならない。

私の感情は私だけのものだし、何を持って私以上だとするのかわからないし、私が喜んだり悲しんでいるのを見て、それ以上に喜び悲しんだとしてもそれはあなたの感情だし。

だからこそ、なんだか申し訳ない気持ちにもなってしまうし。

だからこそ、私の感情を適度な距離を持って見ていてくれている人の方がいい。

そういうことを見守っていてくれるというのではないか。

 

自分の感情に強く踏み入られることをなく、相手の感情に過度に踏み入ることもない。

お互いがお互いの感情に対してそうすることができることではじめて、「一緒にいる」ということができるようなきがしている。