本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

プリキュアとアンパンマンとアンとジェイン。

今年の初めにプリキュアを見てからなんとなくハマってしまって、今ではローカル局で再放送されている過去シリーズも見ていたりして、なんかもうすっかりプリキュア好きになってしまっている。

 

まさかこの年で、なんの前触れもなくハマるとは。急展開すぎて未だに自分でもこの現象に慣れていない状態だ。

 

でもプリキュアに対して引っかかるところが、ひとつだけある。

引っかかるというか、もやもやするというか、心配になるところが。

それはオープニングテーマ。

だいたいどのシリーズのオープニングテーマにも、似たような歌詞があって、それを聞いていると「まだ生まれたてといってもいい子供達にそんな刷り込みして大丈夫?!」と心配になっちゃうのだ。

 

具体的にどこがというと、私が知る限りではあるけど、どのプリキュアの主題歌にも入っている、ザ・友情賛美!な歌詞である。

 

例えば、

「ひとりじゃない 一緒に!」だったり、「一緒ならパワーYes!てんこ盛りっ」だったり、「一緒ならスパークリングワンダフォー!」だったり。

とにかく一緒なら大丈夫という歌詞が必ず出てくる。

 

 

こうした歌詞の他にも、「友達ができなくて悩んでるちびっこ達はどうしたらいいんだ…!」「ひとりが好きなちびっこ達はどうしたらいいんだ…!」と思わせる歌詞がもりもりしてて、こんな小さな時から友達作るのが苦手な人間が弾かれてしまっているのね…と悲しくなってくる。

「友達100人できるかな」的なプレッシャーは一年生になる前から、幼稚園の時から、かけられてしまっているんだなぁと心配にもなる。

(根暗な大人の余計なお世話な心配だって自覚してはいるのだけれど…。)

 

しかしそんな時、ブルーな気持ちから救い出してくれるのはプリキュアよりも長い歴史を誇るあのアニメのあの歌詞。

「愛と勇気だけが友達さ」。

そう。アンパンマンのオープニングテーマだ。

この歌詞の容赦のなさ。子供相手に手加減なしにある種の真実を全力でぶつけてきてる感。

すごい。

改めて聴くと、この言葉を心に秘めていればどんな場所にも胸を張って出て行けそうな気がしてくる。

アンパンマンってやっぱりすごい。

やなせたかしってすごい。

 

 

 前置きが長くなりましたが、プリキュアアンパンマンの話がしたいのではなくて、本当はアンとジュディとジェインの話がしたいのです…。

そろそろ本題に…。

 

 

 

あしながおじさん』と『赤毛のアン

 

三宅香帆さんが連載でヒロインが魅力的な本のひとつとして紹介していたり、鴻巣友季子さんがわたしの原点といっていたので気になっていた『あしながおじさん』を読んだ。

 

あらすじを知っている人も多いだろうけど、改めて私なりに説明すると、孤児のジュディが見知らぬおじさんに金銭的援助を受けて大学に進み、おじさんに華の大学生活の報告を重ねていく書簡小説。

 

海外の児童文学には孤児が主人公のものが多い。なぜなのかはわからないけれど、なぜなのか気になるところだけど、ほんとに多い。

そんなたくさんある孤児の物語でも、真っ先に浮かぶのが『赤毛のアン』で、次に浮かぶのが『あしながおじさん』じゃないだろうか。

 

 

赤毛のアン』のアン、『あしながおじさん』のジュディ。

どちらも天真爛漫な孤児だ。

みんなに好かれて、想像力があって、恵まれない出生にも負けずに明るく生きている女の子。

想像力を武器に明るく笑顔で逆境を乗り越えて行く。

どの時代でも愛されてきた少女たち。

 

ジェイン・エア

そしてもうひとつ、私の中で、『赤毛のアン』『あしながおじさん』のほかに、外せない孤児の物語がある。

それは『ジェイン・エア』だ。

ジェイン・エア』の主人公ジェインは、アンやジュディと孤児という境遇は一緒でもまったく異なる性格をしている。

 

どう異なるのかというと、ジェインの性格は、随分とひねくれてしまっている。

それが彼女のもともとの気質なのか、育ちによるものなのかはわからないけれど、ジェインは大人への反発心反抗心が強くて、みんなから好かれる性格とは言えない。

逆境を憎みながら現実に刃向かって行くような主人公だ。

 

ジェインも、アンとジュディと同様、自分が置かれた逆境に、負けてはいないのだけれど、もっと陰気に負けていない、という感じで現実と真っ向から対立して立ち向かっている。

 

アンとジュディが辛い現実からとりあえず目を逸らし、想像を楽しみ、現実をうまくかわして受け流すことで自分の逆境を乗り越えているのと対象的だ。

 

 

孤児たちそれぞれの武器

ジェイン・エア』よりも、『赤毛のアン』と『あしながおじさん』の2作の方がより知名度が高く、広く読まれていることから、逆境に負けずに想像力と明るさを持って笑顔で乗り越えるストーリーの方が受け入れやすいことがわかる。

でもそのことがアンやジュディのように生きれない人にとっては、「明るく楽しい性格のほうが好かれる」という結構な圧力になると思うのだ。

 

孤児という環境に置かれた時、アンやジュディのようになれる人の方が少ないのではないか。ジェインのように自分の置かれた環境を嘆き、周りの大人に真っ向から反発するような子供の方が大半だと思う。

 

明るさと想像力という正の感情を武器に逆境を乗り越えるアンとジュディ。

悔しさと憎しみという負の感情を武器に逆境を乗り越えるジェイン。

 

アンとジュディの方が広く受け入れられているのはなぜだろう。

 

 

理想像と現実

私にはアンとジュディは理想で、ジェインが現実だ。

 

だからアンとジュディの物語が多く読まれているのかもしれない。

それが理想で、それが希望だから。

 

だからこそ最初からジェインのような物語を読まされると、重い現実を読まされると、なんというか希望が持てない。

アンやジュディのように「どんなことがあっても明るく笑顔と想像力を持って乗り越えましょう」という生き方を理想として人生の指針として置いておくのがいい。それを大前提としては置いておきたい。

 

だけどそれができない自分に気づく時はきっとくる。

理想には程遠くて、自分の負の感情に気づき、それを持て余してしまうような日が。

 それでも、「どんな時も明るく楽しく想像力を持って生きる」そんな風に生きられなかった、アンやジュディにはなれなかった人にも、待っていてくれる物語はある。

それがジェイン・エアの物語だ。

明るく楽しく生きてはこられなくて、憎しみや悲しみの渦にのまれそうになっても、最後には幸せな結末を選びとったモデルとして、ジェイン・エアの物語が待っている。

 

小説は、物語は、世界にたったひとつしかないわけじゃない。

私たちにはひとつの物語しか与えられていないなんて、そんな乏しくて貧しくて了見の狭いことあってはならない。

どんな人にだって、その場その場で寄り添ってくれるその人だけのものがある。

 

世界にはたくさんの物語があって、それぞれにそれぞれの輝きを持って存在していて、その中で優劣があるわけでもない。

優劣があるわけじゃないけど、みんなそれぞれ素敵なんだけど、そんな風にたくさんある中のたったひとつの物語が私に寄り添ってくれている、そう感じられたら、どんなに心強いだろう。

 

おわりに

子供の頃に『ジェイン・エア』を読んで救われた古屋美登里さんのような人もいるんだろうけど、私には『ジェイン・エア』が子供向けの本には思えなくて。子供が読むにはちょっと難しそう。

やっぱり『赤毛のアン』や『あしながおじさん』の方がとっつきやすくて読みやすい。

 

子供の頃からアンパンマンのテーマ曲を刷り込まれていて、大人になってもふとした瞬間に思い出して救われるように、『ジェイン・エア』のような物語も子供の頃から読んでいると、いろんな選択肢をあらかじめ頭に置いておけるからいいのかもしれない。

 

なんかないのだろうか。大人からしたら生意気で可愛げがないけれど、アンやジュディのように生きられない子供が救われるような子供向けの物語って。

 

もしあるのなら大人になってしまった私でもぜひ読んでみたい。

 

 

あしながおじさん (新潮文庫)

あしながおじさん (新潮文庫)

 

 

 

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

 

 

 

ジェイン・エア(上) (岩波文庫)
 
ジェイン・エア(下) (岩波文庫)
 

 

 

「何故海外児童文学の名作は孤児が多いのか」という疑問については、大矢博子さんのこの一連のツイートが答えてくれました。

そうか…戦争だったのか…。