最初から自分と違う人の努力の物語、生きてきた時代や世界が違う立派な人の物語は受け入れられても、身近な人の立派な物語は怖いんです。なぜ怖いのか、それは「努力すれば自分にもできるかもしれない」からです。
「努力すれば自分にもできるかもしれないのに、それをしない自分は怠け者だ」と思ってしまう人がいるのです。
まじめな人って自分がまじめだってことにはたぶん気付いていない。
それが当たり前だと思っていると思う。それでこそまじめ、芯からのまじめなんだもの。
人から「まじめだね」と言われて「あぁ私ってまじめなのか」って、はじめてそこで認識する。
たぶんそんなもの。
読みながら、「あの子にもこの子にも貸したい!」と思ったけど、「まじめだね」って褒め言葉じゃない気がするので、このタイトルの本って人には貸しにくい…。
それだけじゃなく「損してない?」っていってるみたい。
ますます貸せない。
この本は、雨宮さんの連載を書籍化したもので、読者の愚痴ひとつひとつに対して、雨宮まみさんがまるで凝りをほぐすようなツボを押してくれるような言葉を返してくれる。
私が辛かったのはそのせいなのか?と目から鱗が落ちるような、辛みそのものを手掴みで目の前に差し出してくれて解説してくれているような、そんな雨宮さんの返しもすごいんだけど、読者の愚痴もまるで島本理生、窪美澄、西加奈子、三浦しをんの小説を読んでるかのようですごい。
でも小説っぽいからといって現実味がないというわけじゃなくて、小説の中にある現実味が実際に現実に具現化して現れたような感じがした。
でも本来は読者の愚痴のような現実があるからこそ小説が生まれるんだろうな、とも思って、小説の中の現実味と、現実の中の小説味が頭の中をぐるぐる回った。
小説ってつくりものだけど、やっぱりすごく現実なんだなぁ。