本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

その人が見てほしいであろうその人を見る

古谷田奈月さんの『望むのは』という小説は、お隣にゴリラが住んでいる中学生が主人公だ。

ゴリラみたいな外見でもなく、そういうあだ名なわけでもなく、完全にゴリラ。といっても人間と同じように話すし、普通に生活をしているゴリラだ。

そのお隣ゴリラさん秋子さんが、のちに結婚することになる初対面の男性から「やぁ君ゴリラだね!」と言われて嬉しかったという場面があるんだけど、そこを読んで私はちょっとひやひやした。

たまたま秋子さんがその言葉で救われたような思いになってくれたからよかったものの、そう言われて嫌な思いをするゴリラだっているだろうなぁと思ったから。

 

ありのまま見たままを認めて欲しい人もいれば、変えられないありのまま見たままの姿を指摘して欲しくない人だっているはず。

その人が見てほしいだろうその人を見るようにしようと、この小説を読んで思った。

 

私はもともとオネエ系と呼ばれている人を自己認識とは違う性別がわかる本名で呼んで取る笑いに違和感を感じていた。

その人の本性を暴いてやったかのような上から目線を感じるし、自分に正直に生きてる人を嘘つき扱いしてる感じも嫌。

だから、その人が見てほしいだろうその人を見ようと、思えた自分に納得した。

 

そんな私を悩ませる事象が発生した。

それはりんごちゃんだ。

 

24時間テレビで初めてりんごちゃんの歌を聞いた人が一斉にりんごちゃんの性別を調べだしたから、ネットが繋がりにくくなったと聞いてびっくりした。

りんごちゃんの歌を初めて聞いた時に私と兄は「声量すごいね」というようなことしか言わなかったから。

なんでそんなすぐ性別を調べるのだろう。どっちでもいいとか、どうでもいいという風にはならないんだろうか。

 

「りんごちゃんが男か女かなんてどっちでもいいじゃん」って言う人もたくさんいた。私はどちらかというとその人たち側だけど、ふと思ったのはりんごちゃんはどう思ってほしいのかということ。

 

りんごちゃんは歌う前は女性だと思ってほしくて、そして歌い出したら男性だと思ってほしいのかもしれない。

歌い出して「男だったの?!」と思って欲しいのかもしれない。そこで笑って欲しいのかもしれない。

 

歌う前も後も女性だと思っていて、ただ「歌うまいねー」と言い合っていた私と兄はりんごちゃんのご期待に添えなかったのかもしれない…。

 

りんごちゃんが見てほしいりんごちゃんってどこにあるんだろう…。

 

そもそも「その人が見てほしいであろうその人を見る」という考えは、主体性がなくてよろしくないかも、などと考えだして悩ましい。

 

 

望むのは

望むのは