『イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案』は作者のチママンダが、女の子を出産した友達に、どうしたら「女だから」という理由でふりかかる、理不尽でマイナスな体験をさせずに子育てできる?と尋ねられたことをきっかけに出来た本。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはナイジェリアのイボ民族出身だけれど、フェミニズムやジェンダー論は、国によって大きな差異はなく普遍的なものだと思っていたので、読んでいて「ん?」と思ったところがあった。
多くのイボ人女性は、条件づけがあまりに完璧であるために、子供は父親「だけ」に属すると考えます。ひどい結婚生活に見切りをつけはしたものの、子供は男性に属するものとされて、子供を連れて出ることも、子供と会うことさえも「許可され」ない女性をわたしは知っています。
これは日本だとちょっと違うのではないだろうか。
「子供は母親のもの」という考えの方が私には馴染み深い。
日本では夫婦が離婚する時も大抵は母親が子供を連れて行くパターンが多くて、子供となかなか会えない父親という方がイメージしやすい。
物語で書かれるパターンはだいたいこれだ。
離婚ではなくても「子供は母親のもの」だとされているからこそおこる不平等や侵害はいくらでもある。
私の親戚に幼くして亡くなってしまった女の子がいるのだけれど、その子のお母さんが亡くなった時に、親戚達がお母さんの骨とその子供の骨を一緒に納骨したのもそれだ。
私はその話を聞いたときに「どうしてそんな酷いことができるのか」と唖然とした。
その時は私が何に対して唖然としていたのか、どうして「そんな酷いこと」と思ったのか、具体的に言葉にできなかったけど、
この本の中で、チママンダがフェミニスト第1の提案として、
あなたが完全な個人であること、フルパーソンであることです。母親になるのはすばらしい贈り物だけど、あなたが完全自分を母親だけに閉じこめてかんがえないで。な個人であること。そのほうがあなたの子供にもいいのだから。
と書いているのを読んで自分の感情を説明されたようで、胸のつかえが取れるのを感じた。
私はあのとき、1人の人間が一つの側面しか見られず、1人の人間として尊重されていないのを感じて唖然としたのだ。
「子供は母親のもの」という考えが染み付いていたからこそ、そんなことができたのだろうけど、それ以前の問題として、1人の人間が1人の人間として尊重されていなくて、一つの側面しか重要視されず、蔑ろにされているのを感じたのだ。
「子供は母親のもの」「子供は母親といるべき」という大した根拠のない考えの前に、「子供が亡くなった」「母親が亡くなった」の前にどうしてそれぞれ「1人の人間が亡くなった」と考えることができなかったのだろうか。
他にも、チママンダは「フェミニストの道具」の一つとして、「それを逆にするとおなじ結果になるか?という問いかけ」をあげています。
そのツールをこの話に使うとすると、「父親の骨と子供の骨を一緒にいれるか?」という問いかけができる。
そんなこと絶対しないと思う。
それは「男には父親としての側面しかない」なんて考えないし、「父親は子供のもの」じゃないし、「子供は父親のもの」じゃないから。
というか父親だろうと母親だろうと子供の骨を一緒にいれるなよ。子供を1人の人間として尊重しようよ。
チママンダが「あなたが完全自分を母親だけに閉じこめてかんがえないで。な個人であること。そのほうがあなたの子供にもいいのだから。」と言っているのは何も母親になった1人の人間に対してだけじゃなく、誰かの子供にだって言えるのだから。
前作の『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』と同様に、読んでいると「そういうもんだ」となんの疑問も持たずに受け流していたものに対して、あれって確かに差別だ!と時空を巻き戻してきちんと憤りを感じることができるし、自分で自分を制御していた思考、知らず知らずのうちに囲われていた覆い、自分で選んだはずの願望も実はそうではなかったのかもしれないと気付かされ、すごく自由で晴れやかな気持ちになる。
それと同時に、すこし心許なくもなる。
自分の思考がどれほど囲われやすく、制御されやすく、自分のものではなくなってしまうかに気付かされてしまうから。
そんな風に気付かされたからこそ、チママンダが生まれたばかりの友達の子供チザルムに対して、
わたしはチザルムには、自分の意見をたくさんもつようになってほしいし、その意見が十分に情報をあたえられた、人間味のある、寛容な場所から出てきたものであってほしいのです。
と願ったここの部分がすごく好きだった。
「十分に情報をあたえられた人間味のある寛容な場所から出てきた意見」
大事。尊い。
チママンダがこの境地に至るまでの背景を考えると泣けてくるほど。
狭い視野で不十分な情報からきた意見や、機械的で暖かみの感じられない意見、融通が効かず余白のない意見を幾度となくぶつけられ、自分の意見も同じような性質を持ってるのではないかと、幾度自問自答したことだろう。
たくさん苦しんで悩んだことがなければたどり着けない境地だとは思いたくないけれど、でもなんにも考えずにのうのうと過ごしていたらでてこない美しさがあると思う。
私はチママンダのいうような「十分に情報をあたえられた、人間味のある、寛容な場所から出てきた意見」をどれだけ持てているだろう。どうしたらこの先そんなふうな意見をたくさん持つようになれるだろう。
難しいかもしれないけど、やってみたい。
今自分が持っている意見がどんな顔を持つものなのか、振り返ってちょっと距離を置いてみるための、大事な指標をもらえた本だ。