『生命式』 村田沙耶香
「真面目な話さあ。世界ってだな。常識とか、本能とか、倫理とか、確固たるものみたいにみんな言うけどさ。実際には変容していくもんだと思うよ。お前が感じてるみたいにここ最近いきなりの話じゃなくてさ。ずっと昔から変容し続けてきたんだよ。」
いまだに村田沙耶香さんのことを「クレイジー沙耶香」って言う人がいて、それがなんかちょっといや。
この人の作品を読んで、「クレイジー」って言い続ける人にこの作家の本随は伝わっているのかと思ってしまう。この人の作品の周囲をぐるっと一周して「クレイジーだな笑」と冷やかして去っていくだけの人たちに見えてしまう。
『コンビニ人間』の一節に「自分たちが普通じゃないと判定したものには踏み込んで解剖してもいいと思ってる傲慢な人たち」みたいなのがあったと思うけど、自分とは違う異質なものをクレイジーで片付けて去っていく人と、その内部に入り込んで理解しようとする人ではどっちが真摯だろう。まだどっちの方がマシなんだろう。
クレイジーだとか凶悪犯罪だとか家庭環境に問題がとか、そういうレッテルを貼って、自分とは違うってことにして解決安心しようとする人のたちに対して抗うようにして存在している作品にまた「クレイジー」ってレッテルを貼るのはどうなんだろう。
と、この『生命式』を読むまでは思っていた。
もちろん読み終わった後だって、この作家のことをもうクレイジーだとは言いたくないと思っているのだけど、でもやっぱり自分の中の拒否反応を示してくるところを突いてくるので「ぐっ…」ってなる。
普段から蓋をして存在していないことにしているもの。はっきりと線を引いて、ここからはみ出るものは考えないってことにしている、無意識にしているものを突きつけられる。
なんでもないことのように平気な顔をして、目の前に突き出されるグロテスクなそれら。
だけどいつ誰がそれを「グロテスク」としたのだろうか。
村田沙耶香さんの作品は何冊も読んできているけど、今回はじめて村田さんの作品は今村夏子さんとちょっと似ているな、と、思った。
今村さんの方は「それ」がじわじわと忍び寄ってくる怖さがあるけど、村田さんのは曲がり角を曲がったら急に「それ」が現れて身動きが取れなくなる感じ。
村田さんの作品とは描き方が違うけど、通底するものがある気がして、そう考えると今村さんの作品も海外で受け入れられそうだなぁ。