『先生はえらい』内田樹
私たちが話をしていて、つまらない相手というのがいますね。こちらの話をぜんぜん聴いていない人です。
なんで私の話を聴いてくれないかというと、先方にはこちらの言うことが全部わかっているからです(少なくともご本人はそう思っているからです)。
その人にとっては、私は「いなくてもいい人間」なんです。だって、私の話はもうわかったから。「君の言いたいことはわかった」というのは、ですから「私の目の前から消えろ」という私の存在そのものを否定する遂行的なメッセージをも言外に発していることになります。
人の話を聞いても、それに関して何も言わず触れずにすぐ自分の話をする人や、話を最後まで聞かずに「あぁ、わかったわかった」と遮るように言う人や、言おうとしてたことを奪う人が苦手だ。
そういう人と話しているとイライラするし、傷つきもする。
「そんな些細なことでイライラするなんて、傷つくなんて、器が小さい!」と自分でも思って、気にしないようにスルースキルを身につけようとはしてきたけれど、なんかもうどうにもならない。
内田樹さんの『先生はえらい』を読んで、そういう人達になんで自分が傷つくのか理解することができたし、必要なのはスルースキルではなく、きちんと傷つくことで、傷つくべきところできちんと痛みを感じることなのではないか、と思いもした。
「先生はえらい」ということを説明するために、学ぶ側に提示する「誤解の幅」が広ければ広いほどその人は先生たりうるみたいなことを言っていて、その延長線上で、「正解」がひとつしかないことの発展性のなさ、「誤解」や「わからない」から始まるコミュニケーションや関係性について触れているのだけど、引用した言葉はその流れででてきたもの。
それまで話を聞いてもらえないことや、話しても何も反応してもらえないことにイラだったり傷ついたりすることがちょっとコンプレックスでもあったのだけど、そうされることによって「いなくてもいい人間」だと言われてるんだったら、そりゃ傷ついて当たり前だわ!と思えた。
何度も同じことで傷ついて、その度傷つかないようにしなきゃ!と頑張り続けるよりも、「これは傷ついていいことなんだ」、「傷つくべきことなんだ」と、受け入れる方が容易いことなのかもしれないし、その方がきっと回復が早い。
そんな気がする。
「私の存在そのものを否定する遂行的なメッセージ」になにも感じないようになったら、他者にも同じようなメッセージを発しそうで、そっちの方が怖い。
目の前にいる人に「気づかわれている」と生きた心地がしてきて、「無視されている」とだんだん生命の炎が弱々しくなる、これはでも、人間として当然のことです。「シカト」といういじめ方が残酷なのは、そこにいる人間を存在しない人間のように扱うことで、「おまえはもう死んでいる」と無言のうちに告知しているからです。「殺してやる」というのなら、まだこっちは生きているわけですから、対処のしようもありますけれど、「死んでいる」と言われてしまうと、もう手も足も出ません。
自分の話をきちんと聴いてくれる人がいるということを生命の炎にとって大事なのは確かだけど、それには自分の話をしないと始まらないことだから、つい人の話も聞かずにすぐ自分の話したり、人の話遮って自分の話をしてしまうのですよね…。私にも心当たりは多々ある…。
この本を読んで自分がなんで傷ついてきたのかわかったと同時に、誰かの話を聴くって大事!しかしそれは難しい!と思った。
私ももっと人の話をちゃんと聴こう。ちゃんと聴かない人にはきちんと傷つきつつしっかり心の距離をおこう。