本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記『日の名残り』

今年は積ん読を30冊読む、というのを目標にしていて、その達成まで後2冊を残すところまできた。

なので、長年積ん読にしていたカズオ・イシグロの『日の名残り』を読み始めたのだけど、これが今見返しているドラマ『ダウントン・アビー』のお陰でイメージしやすいし、同じ世界観なので楽しくてしょうがない。

 

しかし主人公は(まだプロローグしか読んでないけど)共感しにくいタイプ。

でもすごいキャラが立っていて面白いし、共感しにくい主人公好きだ。

 

なぜこの主人公に共感できなくて、引っかかってしまうのかって考えると、それはたぶん、自分の考えは100%正しくてみんな納得するだろうと思ってるところだろう。

別の角度から見たら違う解釈ができるかも知れない、っていう余白がない人の言葉は独善的で他者の存在を受け入れる余地がないので、読んでいてちょっと窮屈だ。

 

この感じはアガサ・クリスティの『春にして君を離れ』の主人公にも似ている。


そういう人の前では自分の思ってること話しても否定されそうで、話す気なくなるよなー、などと思っていたら先日のM-1で見たぺこぱのツッコミを思い出した。
だから私はぺこぱが好きだったのかも。


ツッコミってボケに対する否定みたいなところがある。

でもぺこぱのツッコミはボケの発想を受け入れてより発展させてる。

反射的にボケを否定するツッコミをするんだけど、その否定するツッコミに瞬時に「ほんとにそうか?」と自己懐疑的になってボケの発想を受け入れるとこが好き。
余白がある。余裕がある。好き。


ボケってそもそも常識に対して新しい発想で、常識を破って自由になる発想なのに、それを否定してまた常識に戻そうとするの、ある意味つまらんもんなぁ。
日の名残り』からぺこぱの話になるとは。

 

この100%自分が正しいと思ってる人の話を聞くのは辛いというのは、先日読んで、ひとつ前の記事でも書いた内田樹さんの『先生はえらい』の話にも通じていて、内田さんは内容が理解できない校長先生の話は子供を深いところで傷つけていると言っていて、それは対話の相手、コミュニケーションの相手として子供の存在を必要としていないから、存在を無視しているからとしている。

これは100%自分が正しいと思ってる話を聞かされることにも通じてると思う。

こういう類の話だってそうだ。聞き手の存在を必要としていない。無視している。

 

だからコミュニケーションにおいて、「自分は間違ってるかもしれないな」「ほかの人から見たらまた違うかもしれないな」というある種の自信のなさは必要なのだ。

それが聞き手がその話を聞くための存在理由になる。語り手の傍らに入るための余白になる。

 

そこまで考えて「だから私はあの人の愚痴を聞くのが辛いんだ!」と気づいた。

私には、この人の愚痴だけは無理だ、聞きたくない、むしろ聞かされるようであれば会いたくない、という人がいて、他の人の愚痴は平気なのに、なんでこの人の愚痴は無理なのか…と長年の疑問だった。

それはたぶんものすごく独善的で100%自分が正しいと思ってるからなのだ。

そこに少しぐらいユーモアの余白でもあればまだ聞いてられるかもしれないけど、それもない。

だから、聞いていて非常に辛い。

だからかぁ。

独善的で余白がなくて、目の前にいる自分の存在を否定されてるようだから辛かったんだな。

ちょっと自信なさげな愚痴なら聞けるもんな…。

 

ひとつ前の記事でも引用したけれど、内田さんのいうように、人は存在を無視されると「生命の炎」が弱々しくなると、私も思うし、これ以上「生命の炎」を弱められるようならその人との関係も考えなくてはならないなぁ…。

 

こんなところで長年の疑問が解決されるとは。

これはたぶん、『先生はえらい』と『日の名残り』の合わせ技のお陰。

ほんと、思いもよらないところに救いって転がってるものだ。

 

 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

 

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

 

 

 

 


(読み進めていくうちに、主人公にだんだんと余白が出てきたのかあまり独善的ではなくなってきた…。過去の回想を重ねていっているからかな。目の前にある現実ははっきりとしているけど、過去の思い出はいつも輪郭がぼやけているから、思い出と向き合ううちに余白が出てきたのだろうか…)