本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『アーモンド』 ソン・ウォンピョン

遠ければ遠いでできることはないと言って背を向け、近ければ近いで恐怖と不安があまりにも大きいと言って誰も立ち上がらなかった。ほとんどの人が、感じても行動せず、共感すると言いながら簡単に忘れた。

感じる、共感すると言うけれど、僕が思うに、それは本物ではなかった。

 

僕はそんなふうに生きたくはなかった。

 

韓国でベストセラーになっているYA小説。

韓国のYA文学とはどんなものか??と思って読み始めたけど、いつも読んでるYAじゃない小説と全く変わらなかった…。もちろんいい意味で。

 

生まれつき扁桃体が小さく、人の感情も自分の感情もわからない少年が主人公。

 

人の傷みがわからない主人公の母親が持つ傷み、俺も傷みなんて感じない人間に生まれたかったって言う子の傷み、静かに主人公を見守るおじさんが抱えてる今も癒えない傷み、凶悪犯罪を犯すまでに到ってしまった男の傷み。
人の感情がわからないという主人公の周りにはそんな傷みを持つ人ばかりだ。

 

俺も傷みなんて感じない人間になりたかった、って主人公の友達が言うところは泣きそうになったし、主人公はこのまま感情がわからない方がいいのではなんて思ってしまったりもしたけど、自分が感じる傷みに寄り添ってくれる人、共感して同じように泣いてくれる人がいないと癒えないことってある…。

 

よくドラマや映画の告知で「共感度100%!!」なんて言ってるものがあるけど、そういうのって、なんだか同調圧力みたいで暑苦しい。

ドラマや映画に限らず小説の感想でも「共感できなかった」は悪口として使われる。

そんなふうに作品の評価尺度の優先順位第一位が「共感できるかできないか」になってしまったから、そんなふうに共感という言葉が溢れてしまったから、「共感」がどんどん薄っぺらく軽いものになってしまった。

 

巷に溢れる「共感」は、あくまで自分の許容範囲内の共感というか、自分には傷みが伴わない範囲の共感といった感じ、とりあえず薄っぺらい共感をして、それ以上他人の感情が自分の内に入り込み傷みを感じることのないようにする、薄くしかし強固なベールのような共感ばかりのように思えてくる。

 

この本で伝えようとしている共感はそれらとは真逆の無防備なガードなしの傷だらけの共感だった。

 

他人のために、他人の感情のためにどれだけ傷つくことができるのか。

どこまで他人の感情を自分のうちに入れることができるかどうか。

どこからが本物の共感なのかはわからない。

 

そもそも「共感度100%」ってどうして言い切れるのかもわからない。その人の感情はその人にしかわからないのに。

 

「共感」って難しい。

共感というものがなんなのかもわからないのに、本物の共感なんてできるのだろうか。

でもそれがないのは、「共感する」も「共感される」もないままで生きていくのは、そんなふうに生きていくのはどうにもつらい。

 

 

アーモンド

アーモンド

 

 

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