ひょっとして、善良な人というのは、単にほかの人より運がいい人間というだけのことじゃないのか?それは言い訳にならないのだろうか?
特別なことは何も起こらないような、日常を淡々と書いているような小説を無性に読みたくなる時がある。
特に今みたいに非日常の中を過ごさなければならない時はそういう小説が読みたくなる。
海外文学ではそういう作風の作家さんをあまり知らないけれど、アン・タイラーはそういう作家さんだと思う。
『パッチワーク・プラネット』しか読んだことがないんだけれど、この小説だけでもその作風を存分に味わえる。
主人公は元不良少年だけど、今は高齢者や障害者向けの便利屋をしていてお客さんからも信頼を得ているもうすぐ30歳になる男バーナビー。
この小説のテーマは「善良さ」だと思う。
それが小説の最初にバーナビーの周りで起こる出来事にギュッと濃縮されている。
大晦日、ボルティモア駅でフィラデルフィア行きの電車を待っているバーナビー。乗客達が行き交う中で銀髪の男がフィラデルフィア行きの乗客を探している姿に目を止める。
駅で待つ娘にパスポートを渡してくれる乗客を探している様子なんだけど、それがどうにも怪しい。そのパスポートというのも郵送用の厚手の保護封筒に入っていて、本当にパスポートが入っているかどうかわからない代物。密輸品かもしれないしなんかやばいものが入ってるのかもしれないと疑うバーナビー。でも銀髪の男が自分に話しかけないのがちょっと不満でもある。
頼み事をしても聞いてくれそうな、または騙されそうな人間には自分が見えないということがちょっと不満なのだ。
バーナビーがそんな不満を抱えている間に銀髪の男はソフィアという女性に頼むことに成功した。
バーナビーはその女性とその郵送用保護封筒の中身が気になってしょうがない。
だけどソフィアはその中身をきにするそぶりも見せず膝の上にのせているだけ。
バーナビーはその姿に羨望のようなものすら感じる。
そう感じながらも、彼女の隣に座って中身を確認させようかと画策するちょっと下衆なとこもあるバーナビー。
このボルティモア駅からフィラデルフィア駅まででバーナビーの人柄がよくわかる。
自分が善良な人間に見えないことはしょうがないと思いつつもそれがちょっと不満で、善良な人間を眩しく思いつつも、その道を外させるような唆しを画策し、でもその画策も実は善良な人間が騙されているのではないかっていう心配もちょっとあったりして。
冒頭の駅のシーンはほんの十数ページなんだけど、その後に続く小説の中でもずっとバーナビーは自分の中の善良さを持て余している。
誤解されて傷ついてどうでもよくなって偽悪的なこと言っちゃったり、こんな皮肉を言ってやればよかった!と後悔はするけど実際には口にできはしない程度に善良だったり、自分が下衆いから人にも下衆であることを期待してるけど、自分が下衆だから人は善良であって欲しいと思ってたり。
そんなバーナビーがどんどん好きになる。
なんというかバーナビーは普通なのだ。すごく。こんな善良さ加減の人きっといっぱいいる。
私はこの小説が大好きだ。
ぜひバーナビーに小説の中で会ってみてほしい。普通の善良なバーナビーに共感したり、美しいくらい善良なソフィアを眩しく思ったらしてみてほしい。