わたしが初めてハマった文豪は芥川龍之介で、確か小中学生の頃だった。
近所の本屋さんに通ってちょこちょこ新潮文庫の芥川龍之介作品を買い集めた思い出がある。
結構な数を揃えたはずなんだけど、一度本棚の整理をした時にもう興味薄れてしまったし読み返すこともないだろうと処分してしまったので手元には残っていない。
だけど去年の夏、小さな頃から通いつめていたその本屋さんが閉店してしまうというので、思い出の場所で思い出の本を買い直そうと、『蜘蛛の糸・杜子春』を買った。
自宅に籠りきりの今、ここぞとばかりに積ん読消化を張り切っているので、積ん読の中にあった『蜘蛛の糸・杜子春』を手に取った。
芥川作品10作が収められているこの短編集のトップバッターを飾るのは「蜘蛛の糸」。
十数年ぶりにこの短編を読んだけど、やっぱりというかなんというかなかなかエグい。
読み返すまでもなく、「蜘蛛の糸」という作品は「今思えばなかなかエグい話だよなぁ」と思うような話だったのだけど。
やっぱりただ「自分のことばかり考える人は地獄に堕ちる」というような、単純な教訓話ではなかった。
あらすじは今更説明するようなものではないので省くとして。
なにがエグいってお釈迦様よ。
御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
冒頭から呑気にぶらぶら散歩している御釈迦様。
この呑気に歩いてる感から始まるのがすごい。
その後蓮池の下の地獄にいるカンダタ助けようと思ったのも実は気まぐれだったんじゃないかって思うくらいの布石。
「蜘蛛を殺さなかったカンダタを蜘蛛の糸で助けるなんてちょっと粋じゃない?」なんて思ってるんじゃないかと疑い深くもなっちゃうくらい。
しかしこの御釈迦様、カンダタが素直にそのまま蜘蛛の糸を伝って極楽に来たとしたらどうするつもりだったのだろう。
その後に続いている罪人たちも極楽に迎え入れるつもりだったのだろうか。
それともカンダタが極楽に着いたらその瞬間後に続く罪人を突き落とすように蜘蛛の糸を切るつもりだったのだろうか。
それだとカンダタが後に続く罪人に「下りろ」と言ったこととの違いがわからない。
御釈迦様は神だから人を裁く権利があって、カンダタは人だから人を裁く権利がないからっていう違いなのか。
そもそもカンダタは閻魔様の裁きの後に地獄に堕ちたのではないの?それを勝手に極楽に引き上げて閻魔様のご機嫌損ねない?神の超法規的措置的なこと??
カンダタの後に続こうとした罪人たちだって生前ちょっとはいいことしたんじゃないかなぁ。蜘蛛じゃなくてもハエとか蚊とかの命を救った人だっていたんじゃないのかなぁ。
でもハエとか蚊は糸ださないもんな。そう考えるとやはり「蜘蛛を殺さなかった男を蜘蛛の糸で救う」という洒落をやりたかっただけじゃないのか御釈迦様…と思ってしまう。
やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅ましく思し召されたのでございましょう。
いやっ。カンダタの無慈悲を責めている調になっているけどっ。あなたが中途半端に慈悲を見せたせいで、巻き込まれた人たちに地獄の中で希望を見せた後にまた地獄に突き落としてしまった無慈悲についてはどう思いますかっ。
ぶらぶら御歩きになって去っていこうとしてますけど、そこに悔いはないのですかっ。
ここの一節は御釈迦様が自分の胸の内を語るのではなく、語り手がそれを察して語る風になってるのも興味深い。語り手が思うほど立派な人じゃないかもしれないよ…御釈迦様は…。「悲しそうな御顔をなさりながら」って言ってるけど、ほんとは「つまらなさそうな顔」をなさってるかもしれないよ…。
子供の頃教科書で「蜘蛛の糸」から学ばされた教訓は「自分のことばかり考える人は地獄に堕ちる」だったけど、大人になって再読した「蜘蛛の糸」からえたエグさから感じ取ったのは、「中途半端な慈悲、中途半端な優しさは人を地獄に突き落とす」だった。
芥川龍之介はやっぱりすごい。
(引用部分のカンダタは本当は漢字なんだけど、私のスマホでは漢字変換できませんでした…)