本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『太宰治の辞書』 北村薫

本は、いつ読むかで、焦点の合う部分が違って来る。

 

太宰治が使っていた辞書はどんなものなのか、「女生徒」の中に出て来るロココに関する記述は、太宰がその辞書から引いたものなのか、それとも太宰オリジナルのものだったのか。

この小説のタイトルを初めて見た時は、ナポレオンの「吾輩の辞書に不可能はない」的な頭の中にある辞書のことかと思ったら、実在する辞書だった。

 

太宰治の辞書をめぐる文学研究といってもいいこのミステリーは「円紫さんと私」シリーズの最後の作品。

このシリーズは全部で6作あって、最初の3作は人間の暗部を浮かび上がらせるような日常の謎を追うミステリーだったけど、最後の3作は芥川龍之介の「六の宮の姫君」や太宰治の「女生徒」のなかにある謎を追う文学研究ミステリーになっていった。

 

実はそれがちょっと物足りなくて、日常の謎ミステリーが読みたいんだけどなぁと思っいた。

太宰治の辞書』も文学研究ミステリーで私の求める日常の謎ミステリーではないんだけど、『六の宮の姫君』みたいに、これは論文を読んでるのかな?と思わせるようなものではなく、もっと感情というか情感が書かれていて、小説の雰囲気がちゃんとあった。文学研究と小説の配分がよかったのだろう。前の2作よりちゃんと楽しめた。

〈私〉が太宰治が使っていた辞書と同じものが所蔵されている群馬の図書館に行く場面では、これは旅行記かな?と思わせる風情もあったけど、ちょっと前までは退屈に思えただろう、旅行者の目線で駅や川や碑文を見る描写に旅情を感じて、そこも味わいながら読めた。

旅行記を楽しめるとか、旅情を感じるとか、「私も大人になったな」感がすごいある。

 

〈円紫さんと私〉シリーズの外伝と言ってもいいだろう「白い朝」という短編もすごいよかった。やはり私はこの人の書く情感が好きだ。

あるロマンスが書かれているんだけど、下手したらおじさんが女性目線を使って書く美化された気持ち悪い思い出話になりそうなのに、その気持ち悪さが全くなくて爽やかな読み心地で、この北村薫さんへの信頼度が増した。

たまにないですか、おじさんが書く女性口調が気持ち悪いとか、おじさんが書く都合よく美化された思い出が気持ち悪いとか。

この短編も女性の語り口で始まって、過去の話をし出したので、ちょっと身構えてしまったけど、全くそんなところがなかった。

 

そして、この本にはふたつのエッセイも収録されているんだけど、そのエッセイに書かれている文章が、私が感じた「旅行記」らしさを存分に含む文章で、内心ニンマリしてしまった。

主人公と作家自身が重なる部分を見つけると、微笑ましいというか、嬉しくなってしまう。

しかしフィクションのノンフィクションで、ここまで書き方が同じで、読み心地が同じ作家も珍しいのでは。

よくわからないけど、ここでも北村薫さんへの信頼度が増して、もっとこの人の作品

読みたいなと思った。

 

 

私はシリーズ最終作が出てから読破したけど、前作の『朝霧』からこの『太宰治の辞書』の間には17年もの月日があったようだ。『朝霧』で完結だと思っていたシリーズファンは嬉しかっただろうな。

太宰治の辞書』発売から7年が経とうとしているけど、もう続編は出ないのかな。出るとしたらまた文学研究ミステリーかな。そうだとしたら今度はどんな作品のどんな謎だろう。

期待しすぎないようにはしつつ、頭の片隅で微かに待っていよう。

また、〈円紫さんと私〉に会いたい。

 

 

みさき書房の編集者として新潮社を訪ねた《私》は新潮文庫の復刻を手に取り、巻末の刊行案内に「ピエルロチ」の名を見つけた。たちまち連想が連想を呼ぶ。卒論のテーマだった芥川と菊池寛、芥川の「舞踏会」を評する江藤淳三島由紀夫……本から本へ、《私》の探求はとどまるところを知らない。太宰が愛用した辞書は何だったのかと遠方にも足を延ばす。そのゆくたてに耳を傾けてくれる噺家。そう、やはり「円紫さんのおかげで、本の旅が続けられる」のだ……。