本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『N/A』 年森瑛

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専門家や当事者が教えてくれた正しい接し方のマニュアルをインストールして、OSのアップデートをしたのにも関わらず、情報の処理が追いつかない翼沙のハードウェアは熱暴走を起こしていた。押し付けない、詮索しない、寄り添う、尊重する、そういう決まりごとが翼沙を操縦していて、生身の翼沙はどこにもいなかった。翼沙から出た言葉は何一つ無く、全ても置き去りにして、マニュアルを順守するプログラムだけが動いていた。

 

子供の頃親の本棚にある育児書が目に入る度に嫌な気持ちになっていた。

親は私のことを私という個人ではなく、ただの「子供」としてみていて、その育児書通りに、誰かの言葉に従ってその言葉に私を当てはめ、私もその通りに育たなければいけないのかと暗い気持ちになった。

まるで自分がクリアしなきゃいけないゲームで、育児書がその攻略本のように感じていた。

 

たぶん翼沙に対してまどかが感じていたものもそんなものだったんだろう。

 

自分で考えたオリジナルな言葉や態度では相手を傷付けてしまう可能性、そして嫌われてしまう可能性があって、自分の感性、経験、価値観では相手の心に届く言葉が編み出せない。

 

だから自分にはわからない当事者の気持ちに寄り添う言葉や態度、禁句や避けるべき態度を調べるけれど、それらを覚えてその人の前に立ったところで、上部をなぞるだけの浮ついた言葉にしかならなくて、その人を一つのカテゴリーに収めて決めつけることになる。

 

まどかが彼女も思いもよらない危機に瀕していること知って、それをまどかが傷つかないように教えたい、その危機から救いたいと翼沙は悩んで苦心し、それが調べて予習したものでも、そうしてまどかに選んだ言葉は、まどかに届かなかった。

 

翼沙は自分がものを知らないということを知っていたし、自分では気づいていないけど偏見や差別を持っている可能性もあるって思っていたんじゃないか。

だからどうすればいいのか、何が正しくて何が間違いなのか調べたんじゃないか。

というのは私の深読みだろうか。

 

 

 

Twitterに流れてきたそれなりにバズってるツイートに、いい話だなぁとか面白いなぁと思っていいねしたけど、それが後になって炎上して、いつもその思考や教養の深さに関心している人を苦言を呈していたりして、その人の言うことがもっともだとしか思えなくて、自分が偏見や差別も持っていたことに気づかされて恥じ入ったことが何度かあった。

そうしたことが重なると私がいいなと思ったツイートでも、誰か尊敬している人がいいねを押したツイートにしかいいねを押せなくなる。

私は私の感性や価値観だけで何かを承認することができなくて、誰かが承認したもの誰かのお墨付きを得たものしか承認できなくなる。

 

私はものを知らないし、思いもよらない偏見を持っていて無自覚に差別をしているかもしれない。

そう思っていなかったら、自分で考えたことを自分の言葉で自由に感情のままに発することができたかもしれない。

 

自分がものを知らないことを知ってる時点でその人は賢いのだと古代の哲学者はいっていたけど、知らないからこそ他の人の知に乗っかって言葉を借りてきて、誰にも届かない言葉を発して空回りしてそれでも賢いといえるのだろうか。

何も知らないし、不用意な発言は人を傷つけるからと、何も言わずどんな人をも距離を取る人は賢いだろうか。

 

 

翼沙からでる言葉がオリジナルなものでなかったこと、それが翼沙と自分ならではの関係性からでる言葉じゃなかったことにまどかは失望してしまって、その気持ちはわからないでもないけど、その言葉の背後にあるその時の翼沙の精一杯に気づいてくれたらいいな、と思う。

 

ありきたりな言葉や、誰かから借りてきた言葉でも、よく目を凝らせばその背後にその人の精一杯の優しさや誠意が見えることだってある。それを見過ごさないで欲しい。