本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子

みんながみんな、自分のしたいことだけ、無理なくできることだけ、心地いいことだけを選んで生きて、うまくいくとは思えない。したくないことも誰かがしないと、しんどくても誰かがしないと、仕事はまわらない。仕事がまわらなかったら会社はつぶれる。そんな会社つぶれたらいいというのは思考停止がすぎる。そう思う。けれど、頭が痛いので帰ります、と当たり前に言ってのける芦川さんの、顔色の悪さは真実だとも思う。

 

できる人ができない人をカバーすることによって、できる人の負担が増える。

それを「不公平だ!」とか「ずるい!」と言うのは弱いものいじめをしているようで後ろめたい。

でもそう思っているのが自分だけじゃないとしたら。

ほかにもそう思っている人がいたら。簡単に悪意は増殖して、弱いものいじめは始まってしまう。

 

芦川さんは体が弱くて早退することも多いし、クレーム対応が苦手。

彼女ができないこと苦手なことは誰かがやらなきゃいけない。

彼女が声高にできないことを主張するわけでも、フォローを頼んでいるわけでもないけど、周りの人はみんな「芦川さんはそういう人」だと思っていて、彼女はなんとなく守られている。

できる側の二谷や押尾は彼女を取り巻くその空気がなんとなく腑に落ちないでいる。

 

芦川さんも誰かに負担をかけていることはわかっているから、早退のお詫びにケーキやクッキーを作って配って借りを返そうとするけど、二谷や押尾は食べ物に関心がなくて、そんなものでは持ちつ持たれつにならないと感じているし、むしろ押し付けがましく感じている。

やっぱり2人は腑に落ちない。

 

 

私も体が弱いので、誰かに負担をかける芦川さんの立場もわかる。

でも人より気配りができるところがあるので、できない人の分も色々と気働きをしなきゃいけないという、できてしまう人の負担やわずわらしさもわかる。

できない人へのやり場のない憤りや苛立たしい気持ちも。

自分の労力ばかりが大きくて、他の人はそれにのっかってるだけで、自分ばかりが損をしているのではないかという気持ちも。

でもそれを誰かに言ったところで、できない人はできないしできる人はできるから、結局できる人がやるしかないということも。

 

芦川さんは持ちつ持たれつが成立している世界の住人だ。

弱くて可愛らしくて、小さな声で話してもその声を拾ってくれる距離に誰かしらいて、みんなに守られていて、だけどしてもらってばかりではなくて、自分もその人たちのためにできる何かがあって、もらったものをお返しできていると思っている。

持ちつ持たれつができている、そんな優しい世界の住人。

 

でも持ちつ持たれつはそんなに簡単には成立しない。

補い合うということはそんなに容易いものじゃない。

できることのジャンルは違えど、できることの能力が同じレベルでないといけないし、その能力を求めてなかったら意味がない。

 

借りを返してるつもりの芦川さんのケーキは、二谷や押尾からしたらお返しにもお礼にもなり得ないものだし、彼女はそんなこと思いもしないだろうけど、「おいしいね!こんなの作れるなんてすごいね!」と言わなきゃいけない空気が負担になっていたりする。

 

でも持ちつ持たれつは成立している、人は補い合っていると思わないとやってられない。

 

自分ばかりが損をしているような気ばかりしてしまうけど、自分でも気付かないうちに、知らないところで誰かが私の不出来をカバーしてくれているのかもしれない。

そう思うことでどうにかこの「不公平じゃないか」「あの人ばっかりずるくないか」という気持ちを公平にならしていくしかない。

それが本当であってもなくても。

誰もが少しは感じることであっても、口にすればすぐに悪意に変わってしまって冷酷な人認定を受けてしまうことだから。

だから、たとえそれが幻であっても優しい世界の住人にならなくては。