本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記 ネガティブ・ケイパビリティ

ネガティブ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』

 

渡辺佑真/スケザネ『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』の序章に「ネガティブ・ケイパビリティ」という単語が出てきて、これは『ケアの倫理とエンパワメント』で読んだやつだ!とニヤリとしたけど、その言葉は単語としては『ケアの倫理〜』で初めて出会ったものの、その意味するところ、考え方はもっとずっと前に出会っていたものだった。

 

しかし、なんでもかんでもわかったフリで済ませてしまうのはとても危険です。なぜなら、「わかった」と思ってしまうことが、もう学ばなくていいやという思考停止を招き、真に「わかる」ことから遠ざかってしまうからです。

(中略)

だから、わからないことに耐えて考え抜く。ネガティブ・ケイパビリティは、わかることを否定している逃げの態度ではなく、簡単にわかったつもりになることを戒めるものなのです。

渡辺佑真/スケザネ『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』

 

河合隼雄『こころの処方箋』は、初めて読んだ当時は何度も読んで、ここに書いてあることを全部頭にインストールしたいと思ったほどなのに、ここでネガティブ・ケイパビリティの考えに出会ったのだと思い至らなかったのが悔しい。

反対にそれが、出典元がわからないまでに自分のものになってることの証だったら嬉しいのだけど。

 

速断せずに期待しながら見ていることによって、今までわからなかった可能性が明らかになり、人間が変化してゆくことは素晴らしいことである。しかし、これは随分と心のエネルギーのいることで、簡単にできることではない。むしろ、「わかった」と思って決めつけてしまう方が、よほど楽なのである。

河合隼雄『こころの処方箋』

 

私の身近に何かあるとすぐに「わからない」という人がいる。それはネガティブ・ケイパビリティがある「わからない」ではない。

『こころの処方箋』の解説で谷川俊太郎が書いているような河合さんの口癖の、分からないことの深さを感じる「わかりませんなぁ」でもない。

「わかった」という思考停止より更に酷い「わからない」という思考停止で、わからないことをわかる価値などない、くだらないことだと断定するような「わからない」で、言われると本当に嫌な気持ちになる。

 

その人は自分にはわからないことを言われると、自分の理解力がそこに及ばないこと自分が劣っていることを指摘されたようで嫌な気持ちになるんだろう。

だから自分にわからないことは、わかるまでもないくだらないことだと否定して、自分の地位や尊厳を守ろうとしている。そんな気がする。

「わからない」と決めつける方が、その人にとって楽なのだ。

 

安易に答えを出すよりも、まず「分からない」と思うほうが答えに近づく道だということを、私は納得する。「分かる」だけが答えに近づく道ではないことを、河合さんの「わかりませんなぁ」は指し示してくれるが、それは言葉を失っていいということではない。

谷川俊太郎『こころの処方箋』解説

 

そういう私も、わかろうとする気がない「わからない」を突きつけられて、言葉を返そうとせず、わかってもらおうという気を奮い立たせることもなく、「プライドが高い厄介な人」というわかり方で思考停止をしている。

 

「わからない」という思考停止と、「わかった」という思考停止の間で、様々な可能性を秘めていて滋味のある「わからない」を抱え続けるための能力ネガティブ・ケイパビリティ

そんな能力持ち合わせているのは高僧ぐらいなんじゃないかとか思えてくる。