本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『差別はたいてい悪意のない人がする』 キム・ジヘ

ほとんどの善良な市民にとって、だれかを差別したり、差別に加担したりすることは、いかなるかたちであれ、道徳的に許されないことである。差別が存在しないという思い込みは、もしかしたら、自分が差別などする人ではないことを望む、切実な願望のあらわれかもしれない。

 

 

差別をされたり偏見を受けたりした人の気持ちとか立場とか、どんなことをされて嫌だったとか傷ついたとか、そういうこと知っておきたいなと思う。

自分が差別をされてモヤモヤして、そのモヤモヤを言語化して出どころを明らかにしたいから、というわけじゃない。

そうして傷ついてきた人に寄り添いたい、という気持ちも少しはあるけど、何か嘘くさいというか綺麗事すぎる気がする。

 

たぶん自分が差別する側偏見を持つ側になって加害者になるのが嫌なんだろうな、と思って、そこから深くは考えたことはなかった。

でもこの本を読んでいるうちに、加害者になるのが、嫌なのは嫌なんだけど、それだけじゃなく、もっともっと自己中心的な理由で差別や偏見について知りたいのかもしれないと気づいてしまった。

 

自分が持ってる差別や偏見に人前で指摘され、恥をかきたくない、差別者だと思われたくない。

平等な考えを持って差別者を糾弾したい、圧倒的な正しさで誰かを論破したい。

差別や偏見を受けてる人にとっての良き理解者になって役立ちたい、そうすることによって他者から必要とされる存在になりたい。

 

そう思ってるだけなんじゃないかと、恐ろしくなった。

 

マジョリティの人々が差別はいけないよねという時、こうした思いは微塵もないんだろうか。

今はみんな差別や偏見に敏感で、そういうことを言ったりしたりすると、周りから批判を受けやすい。

だから敏感になってるだけで、本当に当事者のことを考えている人、思いを寄せている人はどれくらいいるんだろうか。

 

マジョリティが、差別や偏見はいけない、マイノリティにももっと目を向けなくてはといっても、それはそうしないと自分がマジョリティから弾かれるから、マイノリティに目を向けないとマジョリティの中での場所を失うから、というだけなのではないか。

 

どこまでも自己中心的というかマジョリティ中心だなと思って、げんなりする、がっかりする。それは自己嫌悪でもある。

 

マジョリティが自分のマジョリティ内での地位を守るために、マイノリティに理解を示すとか味方でいるというやり方ではなく、本当にマイノリティのためだけを考えて味方でいるなんてできるんだろうか。