斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』を読み始めた。
斎藤さんは韓国文学ブームの火付け役となった『82年生まれキム・ジヨン』を訳された翻訳家さんだ。その後も次々に素晴らしい作品を訳し、たくさんの小説を日本に紹介してくれて、個人的には日本の韓国文学シーンになくてはならない神様みたいな人だと思う。
この本はその斎藤さんが、なぜ韓国文学が日本の人々にここまで受け入れられたのか、その魅力やそれが生まれる背景となった、韓国の歴史や社会情勢を丁寧に説明してくれている。
発売前から、韓国文学の神様みたいな斎藤さんが、そんな本を出してくれるなんて買うしかない!と楽しみにしていた。
第1章は「キム・ジヨンが私たちにくれたもの」という章タイトルで、『82年生まれ、キム・ジヨン』が生まれた背景と読者に与えた影響を丁寧に紐解いている。
斎藤さんが書いているところによると、『キム・ジヨン』はフェミニズム文学のベストセラーとなり、女性が今までに感じていた理不尽や悔しさを書いて共感を得ただけでなく、女性たちがそれまで気づかなかった差別を生む社会構造を指摘し、覚醒を促したという功績も大きいようだ。
著者が訴えたいのは、どんな家族に恵まれていても社会のシステムに問題がある限り、個人の性格や努力だけで解決はできないという点だからである。
二〇一八年に日本に降臨したキム・ジヨンは、何よりも「社会構造が差別を作り出している」「自分は、その構造によって規制を受けている、当事者そのものだ」という覚醒を、多くの読者にもたらした。
しかし、個人の努力が足りないんじゃない!社会の構造のせいだ!と覚醒させたのが『82年生まれ、キム・ジヨン』という物語ならば、社会のせいにするな!個人の努力があれば成功できる!と夢見させたのも物語じゃないのか。
世の中には今も昔もサクセスストーリーで溢れていて、どの時代でも一定の人気があって、そのどれもが主人公が努力を重ね、周囲に認められ評価され、成り上がって行くストーリーで、努力の素晴らしさを描いている。
主人公が様々な困難を乗り越えて成長し、成功していくストーリーは見るものに希望を与えてくれるし、自分も努力すれば夢が叶うのではないかという気持ちになって、勇気をもらえる。
でも勇気をもらって努力したところで、現実では主人公と同じようには成功できない。社会構造はそんな風にできていないのだ。
差別や不平等を生み出す社会構造は、サクセスストーリーには描かれていなくて、努力の素晴らしさだけ描くなんて、そりゃあ夢がある。
しかしサクセスストーリーの主人公たちはみんな、本当に自分の努力だけで成功していったのだろうか。大多数の人々が感情移入し、夢を抱くことができるような人物、特別なところのない平凡な人物なのだろうか。
よくよく考えてみると違うような気がしてくる…。
主人公には自分でも気づいてない才能があって、偶然の出会いで権力者にそれを見出され、努力が報われる場所に引き出してもらっていたりする。なにも才能がないとしても、特権階級にある人を偶然助けたことによって、努力が報われる舞台に立たせてもらったりするパターンもよくある。
努力が報われるという話ではあるけれど、自分の努力だけで成り上がっている訳ではない。ように思える。
サクセスストーリーの一種でもあるシンデレラストーリーのシンデレラにしたってそうだ。
ディズニーのアニメ映画『シンデレラ』でシンデレラは義姉と共に舞踏会に行くことを許され、ネズミや鳥と共にドレスを作る。忙しい家事の合間をぬって、知恵を絞って。しかしそのドレスも、舞踏会当日に、意地悪な義姉たちによってボロボロにされてしまう。そこで現れるのが魔法使いフェアリーゴッドマザーだ。フェアリーゴッドマザーの魔法によって新しいドレスを手に入れたシンデレラは、無事に舞踏会に出席しそこで王子に見初められ、ハッピーエンドを迎える。
もし義姉の意地悪がなかったとしたらどうなっていただろうか。シンデレラが自分の手作りドレスで王子と会っていたらどうなっていたのか考えずにはいられない。
映画だからファンタジーだから、魔法の描写があったほうがシーンが盛り上がるというのもわかるし、意地悪をされてシンデレラを酷い目に遭わせるのも物語のエッセンスとして大事なのはわかるけど、魔法を介在させずに、ネズミや鳥の助けを借りつつもシンデレラが自分の力で作り上げた王子にあっていたらどうなっていただろうか。
結局シンデレラ個人がどう頑張っても、どんな努力を重ねても無駄で、階級差は超えられないから魔法を介在させたのではないかと勘ぐってしまう。
そんな意図がないとしても、そう考えると、『シンデレラ』は非常にいい塩梅でできている夢物語だ。
シンデレラが自分の努力だけでのし上がって王子に見初められるのでは、あまりに夢物語すぎて「そんなことある?」という疑問が頭をよぎりそうだ。
魔法のドレスで王子に見初められるという完全な夢物語の方が、冷静に現実を省みることなく、でも程よく夢が見られるいい。
「個人の努力が足りないんじゃない社会の構造のせいだ!」といったって、それは本当のことなのかもしれないけど、私たちは「環境や人のせいにするな!努力すれば夢は叶う!」というサクセスストーリーばかり見せられてきた。
でもそのサクセスストーリーにもうっすらと、でもしっかりと差別を生み出す社会構造は描かれていたのだ。
恐ろしい。やり口が汚い。
韓国文学から、『82年生まれ、キム・ジヨン』からだいぶ話はそれてしまったけど、『韓国文学の中心にあるもの』を読んでいて、そんなことを考えた。
ディズニープリンセスについては他にも、過去のこの記事でムーランとアナ雪について書いています。
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