本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記『哲学者たちの天球』

『哲学者たちの天球』という、アリストテレス哲学がどのように広まっていったのか、どのように解釈されていたかということが書かれている本を読んだ。

ちょっと正直後半は難しすぎて返却期限までに読み終えることはできず、図書館に返してしまったのだけど、こうした難しい本に良くある「わかるところはわかるし面白い」本だった。

 

「天が生きている」とか「天は魂を有している」とか言われると、絵本の世界的なファンタジックなイメージを描いてしまうけど、当時のひとはそれを大真面目に考えていて、なぜ「天が生きている」のか理屈付けている。ひとつひとつ論理的に説明されると、なんとなくそう考えるのも間違ってはいないように思えてきて、でやっぱりそれはちょっと無理があるのでは?という部分も出てきて、それもそれで面白い。人間って色んなこと考えるなぁ。

 

そんな中で、アリストテレス主義の中での「魂」の基本的理解というのが出てきて、それによると「魂」は、

①「植物的魂(anima vegetativa)(=栄養摂取・成長能力)」

②「感覚的魂(anima sensitiva)(=感覚)」

③「理性的魂(anima rationalis)(=知性)」

の三つに区分される。

 

魂ってもっと感情とか念とかそんなものが多分に含まれているものだと思ってたな、と読み進めていたら、出てきたのがこの一節。

 

月下界の生きものの魂は、例えば情念などの「より不完全」なはたらきをもっているのに対して、天体にはそのような不完全な魂のはたらきは見られないという。

 

一応魂には私が思っていたような感情や念的なもののはたらきはあるらしいけど、それは不完全なものらしく、あまりよろしいものだとは考えられてなさそう。

 

感受性が豊かであることはいいことで、いい創作者の素質があり、感情豊かに日々を過ごしている人は素敵な人だなんて思ってしまう。だけどそれはその感受性が豊かな人の考えではなく、その人の周囲にいてその感情から生まれたもの、創作物や愛や憐憫の情の恩恵を受けている人だからこそそう思えるもので、感情を動かしている動かされている人からしたら、疲れるものでしかないのかもしれない。

 

情念に惑わされるということは不完全で、何にも気持ちが動かされないことが完全、というのは、感情も持つことの疲れとかそこから抜け出すことで平穏を得たいという人間の気持ちがうっすらと垣間見える。

仏教の煩悩を捨てなさいとか、解脱って考え方とかも結局、それが憎むことであれ、愛することであれ、何にも気持ちを動かされたくない人間の心が生み出したもののようにみえてくる。