本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

12.『死の棘』

「ひとつだけギモンがあるの。きいてもいいかしら」妻は遠慮がちに言うが、そのときすでに彼女のすがたは鴉の黒いつばさを装っている。私は反射的にそばを逃げたくなる。しかし逃げることはできず、じっと待っている。「あなた……に行ったことがあるの?」「…………」「だれと行ったの」「…………」「だれと行ったのよ」「…………」「かくさなくてもいいじゃない。ちゃんとわかっているんだから」「わかっているんならいいじゃないですか」「いいえ、あなたの口からはっきりききたいの。あたしには、なんにも包みかくしははしないって誓ったでしょ。お言いなさいよ。あった通り、すっかりそのまま言ってちょうだい。そこだけでなしに、あなたはいったい

なん回旅行したの。どことどこに行ったの。どこに泊まったの。なにを食べて、どんなほんをよんだの。映画をみたでしょ。なんの映画?どこで、なん回、どんなふうに、うれしかった、どうだったの?」私はそれに答えていく。努力して正確に、包み隠さず。

 

夫がめちゃめちゃ妻に迫られている。それはこの時だけでない。以降のシーンでは以下略みたいな感じで描写されているけど、たぶん冒頭に書かれていたようにずっとこんなふうに詰問されている。

なぜかというと夫が浮気していたから。それは今に始まったことではなく、もう10年も前からで妻はそれをずっと黙認してたんだけど、今この時ついに壊れてしまったのだ。

 

「夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた壮絶な人間記録」と裏表紙には書いてあるけど、これのどこが愛で絆なのか、この小説だけ読んでたらさっぱりわからなかったかもしれない。

けれど私には三島由紀子『しあわせのパン』と彩瀬まる『やがて海へと届く』という小説が補助線としてあったから、なんとなく見当がついた。

 

『しあわせのパン』の中で補助線となったのは、「ずっと、ずっと見てて。私のこと」「水縞くんのことも見てるから」というセリフ。ちなみにこれを言われた水縞くんはこれをプロポーズだと捉えている。

『やがて海へと届く』のそれは、「愛し合って、救い合って、生きることと死ぬことのこわさを薄める」という一文。

 

この2つを合わせると、「夫婦というものはお互いの生活や人生を見守り、生きることや死ぬことの怖さを薄めるもの」という定義ができる。

 

『死の棘』の2人も、こんな理想の夫婦像を元に結婚したと考えたらどうだろうか。

そんな風に誓ったはずの夫が私を見ず、ほかの女となにやら楽しい時間を過ごしている。

浮気されている私の苦しみも知らないで。

これは裏切り行為だと言われても仕方ない。

 

「この手もこの足もみんなあたしが養ってつくったんだ。あたしが栄養に気をつけなければ、あなたはとうの昔に死んでいました。誰にも渡したくない。渡したくない。渡したくない。それなのにあなたはこのあたしというものを捨てて勝手なことをしていたのです。それもひと月やふた月じゃないの、十年ものあいだよ。がまんしてがまんしてきたのに、とうとうあたしは駄目になってしまいました」

 

妻がこんな風に狂ってしまうのも頷けるような、そして今まで夫に関心を払われなかった分、他の女に向けられていた目線を自分の方に向けるため、狂って暴れるのも筋が通っているように思えてくる。

 

しかし、妻の「私を見ろ」というメッセージは、「愛する夫に私を見てほしい」というメッセージでもあるけど、ただ単に「私を見ろ」という自己愛に満ちたものにも見えてくる。

夫を愛しているとかいないとかどうでもよくて、当然自分を見るべき相手が他の女に目を向けているのが許せないだけ。それはただの自己愛だろう。

妻が夫を愛していたのかどうかはわからない。ただの自己愛であったのかもしれない。

 

一方で夫の方はどうだっただろうか。

妻が狂っていって、どんどん激しさを増してくにつれて、それに巻き込まれるようにその苦しみを分かち合うかのように自分も狂っていく。

逃げる機会もありそうなのにそうすることもない。

 

お互いを見続けその人生を見守り分け合うのが夫婦の絆で愛ならば、最後まで狂った妻に添い遂げた夫は妻を愛していて2人は絆で結ばれていたことになる。

 

しかし、「私を見ろ」というメッセージに答え続けた夫も夫で、それは自己愛に基づいたものだったのではないか。

妻が「私を見ろ」という時、妻の視線はひたすら夫に向けられている。

自分はこんなにもこの妻に見られている求められている、という愉悦がありはしないか。

夫は妻の自己愛に気づかず、「これは自分に向けられた愛のメッセージだ、こんなにこの女は私に見られることを求めている、私の愛を求めている!」と受け取り、自己愛を満たしていたのではないか。

妻の狂気のメッセージが自分に向かなければ、それもできなくなる。そして更に自己愛を満たすため、妻の視線を求めて、自分も狂っていった。

 

これは穿った見方かもしれない。あらすじ紹介にあるように『死の棘』はお互いを思いやる夫婦の愛と絆を描いた記録なのかもしれない。

だけど穿った読み方をすれば、壮絶な自己愛の記録だ。