あの街は、もうこの世に存在しない。今故郷にある街は、以前住んでいたところではない。ある意味で私は故郷喪失者のようなものである。
私が育った家はもうない。その周りにあった文房具店や和菓子屋や手芸屋靴屋も、もうない。全部再開発で壊されて大きな市営の施設が建った。
私もある意味で故郷喪失者のようなものである。
故郷を辞書で引くと、「生まれ育った土地」と出てくる。土地を失ったわけではないし、災害や戦争で生まれ育った土地を離れて、そこで一生を終えなくてはならない人たちが沢山いるんかで、私のような人間が故郷喪失者だというのは無神経なところがある。だから、「ある意味で」なんだけど。
故郷というのは、正確にいえば「土地」なのかもしれないけれど、私の感覚としては育った場所や環境や人を含めたものだ。
土地というのは地面だから変わりようがない。だけどその上に立つ建物やそこに住む人、その人たちで形成される環境は、長い時間をかけてあるいはすぐに変わってゆくものだ。
だから故郷は変わる。育った街や環境がずっと変わらないなんてことはないから、みんなある意味で故郷喪失者なのだと思う。
この小説の語り手も、そんな故郷喪失者で、家が経営していたパン屋、ニューヨーク製菓店を舞台に、子供時代や今は亡き両親との記憶を蘇らせている。
その全てが懐かしく温かいものだ。
家族との思い出って良いものばかりではないはずなのに、ここに書かれているものは全てが温かいもので、書かれていないことやなぜ書いてないのかにまで思いを馳せてしまう。
朝ドラとかの家族ドラマでも家族同士で確執があるとか誰かと誰かが仲悪かったりして、それを乗り越えて丸く収まるものなのに。この小説でも父親の存在感が薄かったり、父親と母親の関係性が見えなかったり、疑おうと思えば怪しいところは所々ある。でも書いてない。良い思い出しか書いてないところも怪しいとこになってしまう。
家族の話だけでなく、故郷の話でも良いことしか書いてない。
年を取るといいことばかり思い出してしまうものなのだろうか。それとも、悪い思い出は精算して蹴りをつけてきたんだろうか。それが老成するということだという気もする。
良いことばかりだけではない、というより悪いこと苦しいことばかりだけど、後者にどうにか蹴りをつけて手放して、良いことばかりに目を向ける。そんなことがいつになったらできるようになるんだろう。
世の中を生きていくのに、それほど多くの灯りが必要なわけではない。ほんの少しだけあればいい。
