文藝に掲載された時に読んで単行本も買ったのに積んでいて、単行本読めずにいるうちに文庫が出て買って1年積んでいた、彩瀬まる『森があふれる』をやっと読んだ。
だから6年ぶりに読んだんだけど、「こんなすごい小説だったのか」と震えた。6年前の時は彩瀬さんの文体や作風を味わうだけで、そこに書かれている主題はいまいちわからず、「ふむふむ」ぐらいのものだったと思う。
それを今回読んでみたら、みえてくるものが違った。この6年でフェミニズムの本を読んだり、創作物の中で描かれる女性像について語られているのを聞いてきたせいだろう。
それが自分の成長のようで嬉しかった。この小説を深く味わえるようになったことで、学んできたもの積み上げてきたものが可視化されたようで嬉しかった。
しかしそうした成長は良いことばかりではない。物事の解像度が上がり良く見えるようになった分、それまで良い作品だと思っていたものの荒さが見える。幼稚で独りよがりなものに見えてくる。それは切ないし悲しい。良いものだと思っていた自分が恥ずかしく情けない。
『森があふれる』の登場人物にもそれと同じ思いをした人間がいる。
編集者の白崎だ。
「あの小説が、奥さんの同意を得ずに書かれた残酷で身勝手なものだったら、それに感動していた私はなんなのって思った」
どうして自分は、残酷なものと美しいものの区別をつけられなかったのだろう。
白崎は先輩の瀬木口が異動になったため、作家埜渡の担当を引き継ぐ。埜渡はデビュー以降伸び悩んでいたところ、妻の流生を題材にした『涙』が文学賞の候補作に選ばれ、脚光を浴びる。
フィクションではあるけれど、その作品は作家と一回り下の若い妻との関係を書いた小説であることは明らかであり、作中には官能的なシーンも含まれる。
小説を読み、流生に会う人はみな、作中の人物を思い浮かべるだろう。そしてその官能的なシーンも。
しかしモデルである流生に忠実に書かれたかというとそうでもない。それは埜渡やひいては男性にとっての都合の良い理想の女性でしかなかった。
「男性にとって」と書いたが、新しく埜渡の編集者になった白崎は女性だ。しかし白崎もそうした男性にとって都合の良い女性を違和感なく受け入れていたし、そうすることによって、そのモデルとなった流生を踏みつけにしていたことに気づき始める。埜渡の家に行くようになり、女性の先輩と彼の作品について話すことによって。
そうして至った胸中が先ほどの引用部分だ。
今までなんの疑いもなく感動していた作品が、誰かを踏みつけにしてその犠牲のもとに生まれたものだったとしたら。自分のその無意識で無邪気な加虐性に気づいてしまったら。今後どう作品と向き合って行けばいいだろう。これから出会う作品とも、今まで読んできた作品とも向き合い方が違ってきてしまう。加虐性に気づいたことは成長といえるかもしれないけれど。
女性である白崎ですら、作中の女性が男性にとって都合良く書かれた女性であることに気づかず、その残酷さにも気づかなかった。
それほど、作中の人物が誰かにとって都合の良い人物像になっていないか、ストーリーが独りよがりでないか判断するのは難しい。それは一つの作品だけでなく、様々な作品で長い間書き続けられてきたステレオタイプであり、馴染んでしまっているものだから。
しかし彩瀬まるが書く男性は都合良く書かれているわけでもなく、女性にとって都合が良くなるように悪様に書かれてもいない。
女性作家が書いた男性キャラクターを女性の読者である私がこんな風に言ってもなんら説得力はないが、今の私はそう思う。
『森があふれる』で特にそう思うキャラクターは、白崎の夫貴央と埜渡だ。
貴央は社内政治の煽りを受け、興味のない部署に飛ばされるが、周りの社員は仕事ができない人たちばかりで、業務の大半を1人で回している。
毎夜毎夜出口の見えない愚痴、会社や同僚の悪口を聞かされる白崎が業界内の転職を進めても、「なんでわざわざ格下の会社に移らなきゃならないんだ」と突っぱねる。他の会社に移ってやりたい仕事をやるよりも、ネームバリューがあり給料が高い今の仕事の方がいいようだ。
白崎と貴央の会話や、埜渡の幼少期から現在までの記憶を見ていると、彼らは常に競争社会を生きていて、勝つか負けるか、上か下か、弱いか強いかの二元論しかないことがわかる。
強いか弱いかだけが重要で弱い奴は負けで踏みつけられるしかないという世界観では、仕事で疲れて帰ってきても妻に弱みをみせてケアされることさえも、「弱いやつのすること」「憐れまれて惨め」になってしまい、結果不機嫌を撒き散らし自分より強い立場にいる人間を悪様に罵ることしかできないのだろう。
それはただの八つ当たりだし、聞いている方も辛い。しかし強い弱いの二元論しかない人がそうなってしまうのもわかる。
不機嫌になるのではなく弱さや受けてきた傷を素直に見せてくれたらいいのに。でもそれは男のプライドが許さないのだろう。競争社会で上か下かの価値観しかでしか物事をみてこなかった人間がそうなってしまうのもうなづけるものではある。
『森があふれる』で書かれている男性をみているとそんなことに気付かされる。
会話をする夫婦は白崎と貴央だけではない。
物語の終盤ではそれまでほとんどなかった埜渡と流生の会話も書かれていく。
その会話は噛み合ってはいないし、埜渡が上から目線で流生のことを真正面から受け止めないでかわそうとしててイライラモヤモヤする。そのイライラモヤモヤの分、どこかでありそうな現実味がある。
だけど、その会話のすれ違いの分、埜渡がどういう人物で、今まで書かれてこなかった流生の内面がわかるようになっていて、「すれ違っている」ということがわかる分だけ、これから2人は向き合っていってこれからそのすれ違いや溝が埋められていくのではないかと期待が持てた。
今まで自分が不当に扱われてきたこと、見せられてきたものが誰かを踏みつけにしたものであること、相手の持っている価値観やその土台にあるものが呪いになっていること、この小説の登場人物が作中で様々なことに気づいていく。
それを自分の中だけの内省にするのではなく、自分の外に溢れださせ、それが相手とのコミュニケーション齟齬を生む。コミュニケーション齟齬というコミュニケーションを生む。
自分が吐き出した思いが種となり芽生え、繁茂し、それが他の植物に影響を与える。会話をコミュニケーションを諦めなければ、それが繰り返され、多種多様な植物や生物がそれぞれの生態に合わせた生きやすさを求めつつも、共生できる森ができていくのではないか。
そんな豊かな森を連想させるような会話であり、物語の終わりだった。
