食べ物小説といっていいのかわからないけど、そう形容したいジャンルの本はあって、主にエンタメ小説界隈で人気だ。
いつ頃からあるのかわからないけど、体感では群ようこ『かもめ食堂』あたりから。正確にいうと小説から人気がでたというより、『かもめ食堂』の実写映画化からそういう小説が人気になってきたように思う。
その後の小川糸『食堂かたつむり』なんかも人気が出たし、その後も◯◯食堂シリーズとか居酒屋◯◯シリーズ、喫茶◯◯シリーズとかシリーズもので何作か出たりして。
そういうのは大体日々の疲れや失恋なんかの傷心を食べ物で癒すような癒し系小説だ。たまに癒し系プラス日常の謎系ミステリーになったりするけど。
なんでこんなに食べ物系小説は人気があるのだろう。
私が毎作読んでいる韓国文学ショートショートシリーズは今20作以上出ているんだけど、その中で一番売れているのが、キム・ヨンス『ニューヨーク製菓店』だそうで、私は絶対タイトルに「製菓店」が入っているからだとふんでいる。
タイトルに食べ物が入っているだけで、その内容がなんとなく癒される内容で読後が良いものなんじゃないかと予想できる。
なぜなんだ。なぜ食べ物は癒されるんだ。食べるってそんなに良いことなのか。
とはいえ私も食べることは好きだし、常においしいものを食べたい気持ちはある。
でも食べ物小説はなんか苦手だ。前に書いた読書日記2「エッセイは難しい」でも言ったけど、「わぁこれ食べたい!」という願望、叶えようと思えば叶えられる細やかな願望を抱かされるのがしんどいのかもしれない。
そう思ってたんだけど、最近読書エッセイや書評集は好きだな、なんの抵抗もなく読めるなと気づいた。「わぁこれ読みたい!」という願望を抱かされることに抵抗はない。
なにが違うのだろう。
ここ数年では、アンチ食べ物小説食べ物小説みたいなものもちょっとずつ出てきたような気もする。
「みんなで食べると美味しい」「丁寧な食事」に対するアンチテーゼみたいな小説も出てきた。佐原ひかり『人間みたいに生きている』とか漫画だけどゆざきさかおみ『作りたい女と食べたい女』とか。
その中でもその要素が強いのが高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』だと思う。
十五分ほどで食べ終わる。仕事から帰ってすぐ、一時間近くかけて作ったものが、ものの十五分でなくなってしまう。食事は一日に三回もあって、それを毎日しなくちゃいけないというのは、すごくしんどい。だから二谷は、スーパーやコンビニに行けば作られたものが売られているんだから、わざわざ自分たちで作らなくたっていいんじゃないかと思っている。思っているけど、それを口にする代わりに「おいしい」と言っている。ただ毎日生きていくための活動に、いちいち「おいしい」と感情を抱かなければならないことに、そしてそれを言葉にして芦川さんに示さなければならないことに、やはり疲れる。
二谷と芦川さんは付き合っているのだが、芦川さんは「ちゃんとしたご飯食べないと体に悪いよ!」と丁寧に料理して二谷に食べさせたり、職場に凝った手作りお菓子をもっていったりするタイプ。
そんな芦川さんに対して二谷が抱いているモヤモヤとか疲弊、感じている圧力が引用した部分だ。
二谷が芦川さんに対して抱いているそれらは、私が食べ物小説に対して感じるものと近いかもしれない。私は二谷と違って食べることに興味はあるし、おいしいものは好きだし、芦川さんが作るような丁寧な食事を食べたあとに、それだと食べた気がしないからと、丁寧な食事に喧嘩を売るように深夜芦川さんに隠れてカップラーメンを食べるようなことはしないけど。
でも毎日否が応でも繰り返さなくてはいけないものに、いちいちなんらかの感情を抱かなくてはいけないとか、単純に時間と手間をかけなきゃいけないのが嫌だというのは、よくわかる。
最近Xで「自炊キャンセル」を巡って色々ガヤガヤしてたのもあるし、私以外の人も結構そうなのかもしれない。
そのガヤガヤは何かというと、「自炊キャンセルしたい時のみんなの対処法を教えて欲しい」という人に、色んな人がリプを送っていたのだが、「それは自炊キャンセルじゃない。自炊してる」というツッコミが続出していたのだ。
何か食材を切らなきゃ行けなかったり、食材と食材を混ぜなきゃいけなかったり、簡単なものであっても、なん工程かかかったり洗い物が増えるからそれは自炊であるとか、自炊とはなにか?自炊キャンセルとは何か?で盛り上がっていた。
みんな面倒くさいんだ。疲れていると楽したいし、食事に時間をかけたくないんだ。とわかってちょっと楽になった。でもだからこそ、食べ物小説でおいしいものを食べた気になって追体験できるから人気なんだろうか。
でも私は逆に「ちゃんと食べなきゃな」という使命感というかプレッシャーが生まれてちょっと辛い。
読書エッセイを読んでも「ちゃんと読まなきゃな」というプレッシャーが生まれないのは、世間的に「本を読め」という圧がないからかもしれない。読書は食事よりも人間として当たり前の行為とは見做されてないからかもしれない。だからただ純粋に本が読めるのかもしれない。
でもここ最近の流れだと、「本は読むべきだ」とか「本ぐらい読まないと」という圧が高まりつつある気がする。その圧からどうやって、「本が好き」という気持ちを守れるだろうか。
今のところ「おいしいものを食べるのが好き」という気持ちは守りきれていない気がする。
世間の流れと自分の願望が大体同じ方向性であっても、やっぱりそれは別々のもの違う性質のもので、世間の流れが圧となって、自分の願望が押し潰されるということがあって、そうならないように、どうやって自分の願望と向き合って守っていったらいいのやら。
食べ物小説への屈託を考えてみたら、意外と根深く厄介な問題がでてきた。
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