「今からでも変えないと。事業主ではなく労働者、仲介者ではなく雇用主なのだと知るべきだ。
労災保険もないし、費用も全額自己負担。そんなのありか?現代版の奴隷制度じゃないか。
産業革命時代に逆戻りしたも同然だ。奴隷だよ、奴隷。勉強しないと抜け出せない」
『ヘルプ・ミー・シスター』は労働小説だ。高層でもなく中間でもなく、下層の。最下層といわれるような労働、プラットフォーム労働、ギグワーク等の「お仕事」を書いた群像劇。
語り手たちは皆家族なんだけど、みんなまともに働いていなくて、働けていなくて、それだと当然経済的に行き詰ってくる。その中で、「このままではいけない」と立ち上がるのがスギョンだ。
スギョンはプラットホームワークといわれる配達員の仕事を始める。アマゾンの配達員をイメージしてもらうとわかりやすい。
彼女は前職をある事件がきっかけで辞めていて、そのせいで対人恐怖症になっている。そんな彼女にとって、あまり人と会わずにすむこの仕事は社会復帰の第一歩として適格だった。
とはいえあまり稼げる仕事ではない。スギョンは「個人投資家」として家にだいたい居る夫と配達の仕事を分け合って時給を稼ぐ。
しかしそんな二人の労働のあり方は夫の友人から奴隷だと批判されてしまう。それが冒頭の言葉だ。
夫の友人の批判は正しい。真っ当な批判だ。
だけど、その働き方でしか、そのシステムに乗っかることでしかお金を稼げない人にシステムの批判をして何が変わるのだろう。「お前は奴隷だ」と奴隷にいうことで一体何が変わるんだ。
システムの批判は重要だ。人を人として扱わないようなシステムは批判されてしかるべきだ。でもその批判がシステムに巻き込まれざるをえない人に向かっても大して意味はないし、自分に向けれた批判だと感じてしまって、冷静になれなくて反射的に反発してしまうかもしれない。
システムへの批判と、その中にいる人への批判ってパッと見、同じに感じてしまう。
その中に自分がいる場合尚更だ。自分が批判されているように、その悪事に加担している共犯者のように感じてしまう。
「知ってるよ。
知らないわけないだろ。叔父さんだけだよ、この界隈の構造を知らないのは」
「構造?」
「そう。構造。どんな仕事をするときも構造から把握しないと」
人は生まれながらにして社会の一員なんだけど、お金を稼ぐために働きにでるとよりそうなるというか、一員を通り越して歯車になる。大きなシステムを動かすための歯車に。
自分がどんなシステムの中のどんな歯車なのか把握しておいた方がいいことはそりゃそうなんだけど、それってかなりハードルが高い。
とにかく人はお金を稼がないと生きていけない。その仕事がどんなシステムで、自分はなんの一部に組み込まれることになるのかなんて、考えている余裕はないし、わかったとしても選り好みしていたらあっという間に困窮してしまう。
労働システムというのは、往々にしてそうした弱みにつけ込んでくる。人を正に歯車のように扱い人を人として扱わず、踏み躙ったりする。
労働している人は何故人として扱われなくなってしまうんだろう。
システムにもっと優しさと慈しみを組み込んだら、もっとうまくいくんじゃないか。そしたらシステムにうまく適応できない人にだって手を差し伸べられるようにも、そこから弾き出された人もカバーするようにもなるのではないか。
「システム」というのが悪いのではなくて、悪いシステムが悪いのであって、もっと人を歯車ではなく人として扱う優しさと慈しみで回っていく、良いシステムというものがあるのではないか。
なにをどうすればそれができるのか考えだすと途方に暮れるけれど。
