「誤解を招いたら」とか「ご不快にさせて」を前置きにする謝罪ではなく、本当に誠実な謝罪ができる人を尊敬する。
誠実な謝罪とは何か。
古田徹也『謝罪論』によるとそれは、自分がしたことを理解していて、相手がどんな気持ちになったのかも理解していて、どんな償いをこれからしていくかにも言及している謝罪ということだろう。
自分がしたことから目を逸らさない、罪悪感や逃げたい気持ち責任転嫁したい気持ちがある中で、ある程度冷静で客観的じゃないといけないけど、相手の気持ちを考えるという感情の部分も大事で、強さが必要だ。
誠実な謝罪というものがあって、それと対極に位置する責任逃れの不誠実謝罪というものがある。
その2つを一度に見れて好対照を成していた炎上が最近あった。
それはADHDや自閉症、発達障害等の人を「困った人」として表象し、それぞれナマケモノや猿や動物に例えてイラストにした本にまつわる謝罪だ。
この本の著者と出版社は「誤解を招いたらすいません」系の謝罪で、動物のイラストを使ったことに対する著者のコメントは、「ビジュアル表現で「困った人」を動物にたとえていることにもご批判があることは受け止めています。愛おしいもの、ピュアなものの象徴としてとらえており、差別的な意図はまったくありませんでした」というもので、この謝罪コメント自体がまた炎上するという、不誠実謝罪の典型だった。
一方で、その本のイラストレーターは、なぜ動物のイラストにしたのかの経緯を、最初は人間として描いていた等、当初の案まで遡って丁寧に説明し、「イラストレーターとしてではなく、私個人という人間として差別をしました。それは「差別意識の有無」とは関係のないことです。差別的に装画を描くことはしませんでしたが、制作過程における私の在り方が差別的でした」とコメントした。このイラストレーターの謝罪は『謝罪論』の中で書かれていたような、誠実な謝罪に必要な要素が全部入っていたし、SNS上でも大絶賛されていた。
このイラストレーターの絵は私が好きな作家の表紙に使われているしその本が本当に好きなので、安心した。これで不誠実な謝罪をされたら、その表紙を見るたびに不快な気持ちになったかもしれない。逆に誠実な謝罪を読んだ後では、なぜか誇らしい気持ちになる。
好きな作家が書いた好きな本の表紙が誠実な人だったというのは何故か自分の人を見る眼が認められたような気持ちになる。
謝罪というのは、こんなふうに両極端の反応を引き起こす。中途半端な反応はあんまりない。
更に炎上するか、絶賛されるかだ。絶賛される謝罪をした人は、そもそも謝らないといけないことをしているのに、その後の誠実さでマイナスを埋めても有り余るほどの好感度を得ている。あれは一体なんなんだろう。
私は誠実な謝罪ができる人を尊敬するけど、それと同じくらいその人が得た好感度が羨ましいのかもしれない。あんなふうに誠実な謝罪をして褒められたい、みたいな。
そんなことを思ってる人間がいざという時、誠実な謝罪なんてできるはずもない。
同じ時期に読んでいた本に、井野瀬久美恵『奴隷・骨・ブロンズ -脱植民地化の歴史学』がある。
この本の最初の方では、BLM運動の一部として奴隷貿易に関わった人物の銅像が引き倒される事件が扱われていた。その銅像の中にはコロンブスの銅像もある。コロンブスはここ数年でその功罪の罪の部分にフォーカスがあたり出し、印象をがらりと変えた人物だ。
よく「価値観は時代によって変わるから、今の尺度で過去の人を裁くことはできない」というけれど、例えばコロンブスを今の時代に連れてきて、奴隷貿易の酷さやら人権やらなんやらを説いてみせたら、コロンブスはそれを理解して謝罪したりするのだろうか。
古田徹也『謝罪論』の話に戻るが、『謝罪論』には『チャーリーとチョコレート工場の秘密』の作者ロアルド・ダーリーの遺族や版権管理会社が、ダールが生前ユダヤ人に対して偏見に満ちた数々の発言をしたことを謝罪したことが書かれていた。
ダール作品によって、遺族や版権管理会社が恩恵を受けているからこそ、功罪の罪の部分を認めて謝罪したのではないかと古田さんは書いていたけど、これをコロンブスに当てはめるとどうなるだろう。
ダールは割と最近の人だから子孫がわかりやすく居るとして、コロンブスの子孫がいるのかどうかもわからないけれど、コロンブスの成したことに恩恵を受けているのは子孫だけではない。奴隷貿易の恩恵を受けた当時の所謂「文明人」だってそうだろう。その文明人の子孫として私も入るかもしれない。
親はどこまで子供の責任を負うべきなのかという話の逆で、人はどこまで親や先祖の何したことの謝罪をするべきなのだろう。
それに対しての誠実な謝罪とはどんなものなんだろう。
そう考えると思っていたよりも、世界は謝罪に満ちている。

