『片付かないふたり』は、2024年集英社ノベル大賞準大賞を受賞した村崎なつ生のデビュー作。
帯にある、選考委員三浦しをんの選評「人物の内面を丁寧に描写し、深く潜っていくだけで、小説は成立するものなのだ」という言葉通り、人物の心情を丁寧にひとつひとつ拾い上げ描写し心の動きを辿っていく小説だった。
「ある朝目覚めたら見知らぬ青年が部屋に居て、そこから奇妙な同居生活が始まる」と聞くと、よくあるあり得ない状況だなと思ってしまうけど、でもこういう人でこんな背景があってこういう状況なら、そりゃそうなるかと腑に落ちる。それほど登場人物の内面で渦巻くものやそこに至るまでに何があったのかを余すところなく描写しているので、安心して入り込み人物に寄り添うことができた。
主人公は片付けコンサル会社で働く憂。選ぶことが苦手で周りに委ねてばかりで、特に上司の奈々に心酔し、常々「奈々さんになりたい」と奈々をあらゆることの指針にして生きている。
私は「誰々になりたい」と思ったことはないけど、本を読んでこれを直接頭にインストールして、この感性や世界に向ける眼差しを私のものにしたいと思うほどの本に出会うことが数年に一度ある。だけどそんなことは土台無理な話で、この人になりたいと思った直後から諦めている。頑張ればなれるはずだと自分に期待することもないし努力が面倒だし、本当にその人はそう思うまでの人なのか?私には憧れる部分だと思えても他の人から見たら稚拙で極悪かもしれないぞ?と一瞬でも憧れを抱いた人なのに信用していない。自分にも他人にも期待していないから、憂のように誰かに心酔することもない。
だから憂を振ることになる航平の気持ちもよくわかる。憂と同居している航平が、物を減らしたい選択肢を減らしたいとどんどん物を捨てる憂、「奈々さんって人に騙されているんじゃない?」と言いたくなるほど奈々を指針にしている憂に、イラついたり「幽霊みたい」と言う気持ちはもっともだ。
生きるってことは選択の連続でそれは避けられなくて、選択したらその結果の痕跡が至るところに残ってしまうものだし、自分で選択したものではなくても、生きていれば他者に巻き込まれてその痕跡も残るものだ。そうした痕跡で人は誰かの人となりを窺い知るもの。だからそういうものを全部捨てようとする憂は、怖い。痕跡がなにも見えない人は幽霊というかのっぺらぼうみたいだ。側から見たら。
そう、側から見たらそんな風に見えるだけで、憂の内面には様々なものが渦巻いているのだ。それらをうまく言葉にできないし、しないだけで、憂に強く残る痕跡がある。
選びたくないという思いと、奈々さんになりたいという憧れだ。自分のことも他人のことも信用できない私からしたら、「奈々さんになりたい」と願い努力し続ける憂は眩しいが、憂のそうした痕跡や選択は内面は外からでは窺い知ることができない。
憂は航平に「何度も言っているけど、選ぶことも決めることもできるかぎりしないで生活したいの」と言うけど、どうしてそんな願望を抱いたのかは伝えたのだろうか。たぶんしていない。航平に伝えるよりも前に憂は自分自身でもどうしたそうなったのかを整理できていないのだろう。「選ぶことができなくなったのはいつからだろう」と幼い頃のことを振り返るのは航平と別れた後のことだった。
人に伝える前に自分の内面を整理し、伝わるような言葉を精査するのは選択と決断の連続で面倒臭くてたまらない。
「無駄なものこそ大事なことだよ」という航平は憂の考え方とは正反対で遠い位置にいて、だからそれだけ言葉の数、言葉の選択と決断の手数が増える。自分でもわかってないようなことをそんな相手に伝えるのは、これはもう面倒臭い。
航平と別れた憂は友人に「失恋もね、ぱーっと飲むことが大事なんだよ」「憂もたまには羽目を外してみたら?」と飲みに誘われる。憂はこれまで羽目を外したことがない。だから仮に羽目が外れた時に定位置がわかった方がいいだろうと、一旦羽目を外してみることにする。
そうして飲みすぎた末に出会うのがすずりだ。
航平と別れ自分の願望のルーツを辿り始めた矢先に、憂の家に転がり込んできたすずりは、航平が否定した、憂の「奈々さんになりたい」という気持ちを肯定してくれる憂にどこか似ている人物だった。すずりにもこの人になりたいと思う人物がいたのだ。
憂とすずりはなりたい人になるために、その人の行動や思考をなぞり真似をし、その人になりきる。すずりに唆され、奈々になりきって見知らぬグループの飲み会に混ざったりする。
最初は上手くいっていた。だけど段々上手くいかなくなっていく。
誰かになりたくて、その人の真似をしてみたってどうしたってその人にはなれなくて、その人ではない成分が雑味のようなものが出てしまう。それが自分だ。真似をしようと思わなかったら出てこなかった自分にしかない自分だけの成分だ。
羽目を外してみて初めて自分の羽目の定位置がわかるように、自分ではない人物になりきって初めて自分というものがわかりはじめる。
羽目を外したから自分の枠から飛び出るようなことをしたから、自分というもの自分にとっての適量がわかった。それだけじゃない。そうしなかったらできなかった経験や出会うこともなかっただろう人もいた。それがすずりだ。
すずりは、奈々さんになりたいという憂も奈々さんになりきる憂も肯定してくれる。枠の中の憂も枠から飛び出た憂も両方肯定してくれる。
憂とすずりは似ているから。
すずりにも自分ではない誰かになりたいと願望を抱くまでの過去がある。
2人は似ているからお互い似たような願望、航平には理解できない気持ちを共有しているから、思考を整理して言葉に加工して費やして説明する必要がなかった。
2人の間にはそんなに多くの会話はない。だけど憂の心に渦巻く言葉は膨大で、すずりの過去、憂の家に転がり込んでくるまでに何があったのかどうして今ここにいるのかが明らかになるにつれ、憂の心に頭に色んな言葉や気持ちが渦巻く。これは考えるべきことなのかそうでないのか。届けるべき言葉はなにか。相手の欲しい言葉はなんなのか。これは誰かの真似で自分の言葉じゃないのではないか。
逡巡の末に憂の口から出た「すずりも悪くない」という言葉は簡単で短いものだけど、口に出さなかった言葉選ばなかった言葉はごちゃごちゃしててぐるぐるして膨大で、だけどすずりはそれも全部わかっているようだった。選ばなかった言葉をその理由と共に全部わかっているようだった。
2人は似ているから、同じことを考えていて感じていて、でもだからこそ、同じことを思っていても自分ではない他人の口からそれを聞きたくて、だから憂の口から出た「すずりも悪くない」という言葉とその前に出た言葉は、どれだけすずりの心を救ったことか。その前に出た言葉はすずりが思っていたことではなかったかもしれない。でも自分と似ている人が、自分も同じように思ってた言葉を届けてくれる人が、言ってくれた言葉はきっとすずりにも届いたはずだ。
そんなすずり、枠の中の憂も枠から飛び出た憂も両方肯定してくれて、憂が選んだ言葉から選ばなかった膨大の言葉を見透かしてくれるようなすずりが、「憂さんらしいね」と言った瞬間、すずりだけではなく憂も片付いたようにみえた。物語の冒頭ですずりは「おれを片付けてよ」と憂に依頼していたのだ。憂はすずりを片付けようとして、自分を整理して片付けることができた。
一見ふたりとも片付いたかのようにみえたけど、片付けというものは一生続いていく。片付けをサボるとすぐに部屋が散らかるように。
憂の日々は続いていくし、どれだけシンプルに生きようとしたところで、毎日は選択の連続だ。ひとつひとつ整理して片付けていかなくてはいけない。
死ぬまで片付くことなんてない。だけど自分なりの片付けかたなら見つけることができる。
この物語の中でそれを見つけたふたりの片付けはこれからも続いていくだろう。
