アートディレクターの森本千絵さんが「欲張りってチャーミングっていうか生きる力になる」というようなことを言っていて、私はそれを聞いて励まされたというか明るい気持ちになり「やりたいことなんでもやってみよう!」と前向きになったのだが、それから10年近く経ち、今はもうそんな元気がない。
やりたいことが減ったわけではないし、今でもあれやってみたいこれやってみたいと色んな欲はあり、欲張りなのだが、それを叶える気力体力がない。欲はあるのだけれど。これが枯れていくってことなのか。ほんとに生きるって気力体力がものを言う。
最近、恒川光太郎『夜市』を再読した。一年前に初めて読んだ時は、「ホラー小説と聞いてたけど思ってたより怖くないな」という印象しか残らなかったけど、読み返してみたら資本主義と欲望の話で、そういった読み方をすると違った怖さが出てくる話だった。
主人公は小学生の頃、弟と二人で望むものがなんでも手に入る不思議な夜市、何かを買わないとそこから出られない夜市に迷い込み、そこで弟と引き換えに野球の才能を手にいれた。
現実世界に戻ると、弟のことを覚えている人は誰もおらず、まるで最初からいなかったかのように忘れ去られていた。一方で兄の方は野球の才能を手に入れて、選手として大成したかというとそんなことはなく、弟への罪悪感を抱き続ける平凡な大学生になっていた。
主人公が「野球の才能」を欲しがったのは、好きな子が野球が上手い他の男の子のことを好きだったから。
弟と引き換えにすることで、好きな子が好意を寄せる男の子よりも野球が上手くなったけど、振り向かせることはできなかった。
しかし、問題はそこではなくて、振り向かせて両思いになったとてそれで本当にいいのか?それは弟と引き返してまでも手に入れるべきものだったのか?ということだ。
それで本当に幸せになれるのかさえわからない。本当に欲しいものを見つけるのはなかなかに難しい。
ただぼんやりと「幸せになりたい」と思っているだけでは幸せになれなくて、自分にとっての幸せとは何か?と考えた末にでた結論に基づいて「〇〇を手に入れたら幸せになれる」という欲、あるいは幸せそうな人が手にしてるものを「これを手に入れたら幸せになれる」と欲しがる。
でもそうしたものは大体みんな似たり寄ったりで、自分以外にも欲しがる人はいっぱいいて、他の人との奪い合いが始まったりする。傷ついたり消耗したりもする。しかもそれを手にしたからといって幸せになるという目的が達成されるかわからない。本当に欲しいものを手に入れるための前段階として何を欲しがったらいいのかを見つけるのは難しい。
それだったら「幸せになりたいなぁ」というぼんやりとした思いの中を、幸せでも不幸せでもなく、どこにも行かず漂っている方が幸せなのかもしれない。
そう考えると、いろんな所にいって色んな経験をしたい色んなものを見たいというのは、経済を回すために消費をしろという資本主義の呪いなのでは?とか思えてくる。
資本主義というのは欲が満たされることがない。
資本主義の世の中では欲を抱かされる。中には、その時は切実に欲してたけど、後から見るとゴミだったと気付かされる欲もある。
そうして抱かされる欲の中にも、自分では思ってもいなかった世界に連れて行ってくれる力を持つものや、冒頭に書いたような生きる力になるものもあるんだろうけど、人に欲望を抱かせて、お金を使わせて経済を回させて初めて成り立つのが資本主義というシステムだ。
だからゴミを掴まされることも多いし、欲望には限りがない。人々が満足してしまって、何も欲しがらなくなったら、資本主義社会は回らない。
だから私たちは、いつも何かを欲しがっていて、本当に欲しいものがわからなくて、例えそれがわかって手に入れることができても、すぐに満足できなくなってしまう。
そう考えると、年々気力体力が衰えてやりたいことがあっても行動に移せない、どこにも行かない行けないというのは、欲望に踊らされることがない、幸せな状態なのかもしれない。
何も欲しいものがなくて、だから何も買えなくて、そうしてずっと夜市に居るのも悪くないのかもしれない。
この物語は案外ハッピーエンドだ。
欲を抱かされる愚かしさと、本当の欲がわからないという怖さを描いていたけど、この物語の終わりはそのどちらも乗り超えた先に辿り着いたから。
