アンが直線道路を疾走し、最短距離で目的地に到着していたら、映画は始まった途端に終わってしまっただろう。そうやって遠回りをして、止まって、休みながら行く鈍行の旅程の中に、自分の意図や計画から外れた「事件」を引き寄せてくれる誰かがいたからこそ物語が成立したのだ。
キム・ハナを通して自我の境界が広がっていく感じが不思議だった。この人と一緒に暮らしてみてもいいかもと思うに至ったのはまさに、そんな広い垣根の中に、いい影響力を持つ波長のそばにいつも身を置いていたいという気持ちも作用していた。
『女ふたり、暮らしています』は、単なるルームメイトでも恋人でもない二人が一緒に暮らすまでや一緒に暮らす日々を綴ったエッセイ
。
結婚相手を見つけるのは大変で、見つかれば奇跡のようなものだけど、一緒に暮らすことができる友達を見つけるのも同じぐらい、あるいはもっと大変なことだ。
そんな相手が見つかる人はそういう相手が見つかるような人柄で、そういう人柄が醸成されるような環境に恵まれているんだろうなとか卑屈にも思ってしまう。
そういう卑屈な性格が災いするのか、私は人から誘われるということが極端に少ない人間だ。だからどこかに誰かを誘って行く時も、自分の行きたいとこ予定した場所にしかけない。なので、他人の事情に巻き込まれたり見たことのない世界に連れ出して欲しいという気持ちがある。ハナさんを通して自我が広がったソヌさん、自分の意図や計画から外れた事件を引き起こしてもらえるソヌさんが羨ましい。
でもそれは自分にとって都合のいい自分一人では発見できない世界だ。他人は自分の世界に要らない混沌や要らない秩序を連れてくるものでもある。
なんでも溜め込むソヌさんの世界に整理整頓好きのハナさんが秩序を連れてきたように、整理整頓好きなハナさんの世界にインクの出ないペン千五百本を持つソヌさんが混沌を連れてきたように。
自分にとって都合の悪いものを持ち込まれても、都合の悪い世界に連れ出されても文句なくついていけるだろうか?それに対処し適応できるだろうか?
一人だと閉塞感を感じるから他人に連れ出して欲しいと思っていても、それは自分にとって都合の良い場所、新たに好奇心が広がってプラスの意味で世界が広がる場所であって、受け入れられない混沌や秩序ではない。
一緒に暮らしていきたいと思った人でも、実際に暮らしてみると色々な問題があり喧嘩もある。
気の合う人とだって、一緒に暮らすとなれば面倒なことは起こるし一人でいるより気持ちが揺らぐことも多いだろう。
このエッセイは、それに対して二人がどう感じてどう考えているのかが往復書簡のように二人の視点で交互に書かれているから面白かった。
悪かったところは謝って、譲れないところはちゃんと主張して、差し出せるものは差し出す。二人でそうやって日々を重ねて、二人暮らしの形を整えていくことの難しさや楽しさが書かれていた。
私には誰かと暮らす予定や、この人と暮らしたいと思う人はいない。ずっと一人で生きてきたし、それはこれからもそうだ。
だけどこの本を読んで、予期せず気の合う人との二人暮らしが始まっても大丈夫なくらいに余白を持って過ごした方が、一人でも余裕を持って生きやすくなるのではないかと思った。
一人暮らしでは、そんな面倒が起きたり、気持ちが揺らいだりすることはない。だけど、揺らいでも大丈夫なように、その揺らぎを楽しめるように、もう一人増えて大丈夫なくらいの余白を持った方がきっと生きやすい。
一人で生きるとしても、人は人と関わらずには生きられないから、人一人分ぐらいの余裕はあった方が、きっといい。
そういう余白がある人、頑なに一人で生きていくぞという顔ではなく、一人で生きていくけどいざとなれば二人でも生きていけますよ?という、人一人分受け入れる余裕がある人には、やがて気が合う人が近づいてくるかもしれない。
