本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記6.『読者が持つべき読まれる覚悟ってなんだろう』

桜庭一樹『読まれる覚悟』を読んだ。

小説家になって作品が読まれるようになると、批評家やファンの反応が返ってくるようになる。この本では、それに対してどんな心構えでいた方がいいかどんな距離感でいるべきなのか、一線の引き方等が、小説家目線で書かれている。

 

小説をどう書くかという指南本は数あるけれど、世に出した後どうするのか、またどんなことが起こりうるのかという本は、ネット環境が発達したり文フリの盛り上がりがあったり、素人でも発表の場が増えてきた今ならではの本だろう。

そういう意味でもこの本は小説を書いたことのない私のような人間がメインターゲットではないけど、そういった環境のお陰で多くの作品に触れることの多くなった読者、作家との距離も近くなった読者も読むべき本であり、読者としての姿勢や責任を問われているような気持ちになる本だった。

 

その姿勢や責任というのは、ネット環境が発達した分、読者の感想の発信も容易になり、それが作家に届いてしまうこともきちんと意識していかないといけないということ、感想を他の読者や作家本人に読まれる覚悟といったものだと思う。

 

たまにSNSで話題に上がるのは「話題になってるけどハマれなかった作品」「嫌いな作品」などネガティブな感想になる本の場合はどうするかというものだ。

書くのか書かないのか、書くとしたらどんなふうに書くのか、という風に話題になっているのを目にする。それはその感想を作家や他の読者に読まれる覚悟をどのように持つべきかという話でもあると思う。

でもその話はマイナスな感想だけに限った話ではなく、ポジティブな感想も、どっち付かずのなんてことないとのでも本来持つべきものなのだ。

 

私は、合わなかった作品の感想だけでなく好きな作品の感想も同程度、どこまで話すか迷うし、この感想は合っているのか?と思ってしまう。

 

昔、作家も参加する課題本型の読書会で、登場人物に対する印象を話したら作家に「どういう読み方をするかは自由だけど、私は違うと思う」と言われたことがある。ファシリテーターの書評家もそれに同意していて、落ち込んだ。否定的な印象ではなく、むしろ肯定的な感想のなかでの印象だったのだけど、否定されてしまった。

「読み方は人それぞれ」はそうだけど、作家に否定されたらそうも割り切れない。私の読み方が間違ってたんだなと落ち込みもする。でも間違ってたんだから仕方ない。作家という作品の生みの親と書評家という読みのプロに否定されたんだからそうなんだろう。

(ちなみに桜庭さんはそういう時否定するのではなく「そういう風にも読めますね」と返すらしい)

 

だからどんなに好きな作品でも、肯定的な感想でも、その感想や解釈が作家の意図しない感想で私の勘違い読み違いだったらどうしようという心配が頭の中にある。(好きな作品ですらそうなのだから、ハマらなかった作品は尚更だ)

 

SNSで感想を書くと他の読者だけではなく、作家本人に読まれる可能性も多いにある。感想を読まれる覚悟の中には、作家に感想を読まれる覚悟というものも必要だ。作家に否定される覚悟、あるいは行きすぎるとその感想で作家に嫌われたり、ストーカー扱いされる可能性を頭に入れて置かなければならない。

 

GOAT創刊号に掲載の小川哲「嘔吐」で書かれた読者がまさにそうだった。フィクションの中の人物で架空の存在なんだけど、誰だって行きすぎたらこうなるなと感じる話で自分ごとのように怖くなった。

 

主人公は角山桃という作家の顔ファンで古参。

顔ファンというのもイタイところがあるが、角山のことを角山のリア友がスーミンと呼んでいることを知り、自身もそう呼ぶようになるなど、距離が近いところも怖い。

 

好きになったきっかけは顔で、一番好きなところは顔をはっきり言うくせに作品に対して、最近筆が滑ってるとか、なんの挑戦もしていない駄作だとかを古参アピールとともにブログに書く。

怖い。イタイ。でもわかってしまうところもある。私もデビューの頃から読んでる作家さんの最新作を読んで、駄作とまでは思わないけど、同じようなこと前も書いていて新しさがないなとか、他の人も書いているようなことを書かないでーー!あなたにはあなたにしか書けないものがあるはずなんだ!前に書いていたようなあんな感じの作品で何か新しいものを書いて欲しい!と思ってしまったことはある。

だけど、その作家さんが読むだろう耳に入るだろう場所では言わない書かない。しかしそれで本当に良いのか。

この主人公のように「ファンが狂信者になって全肯定しはじめたらきっと小説家の成長もとまっちゃうんじゃないかな」とまでは思わない。なんか偉そうだし。小説家の成長に読者の感想が影響するなんて思わない。読者の感想なんてそんなに大層なもんじゃない。

でも否定的な感想なら黙る、というのはそれはそれで不誠実なのではないかと思うのだ。作品を読ませてもらったものの対価を支払えてないようで座りが悪い。無銭飲食してる気分になってくる。でもこの考えも偉そうなんだろうか。対価を払うというよりも前に、作家と読者はそもそも対等な関係ではなくて、作家は神で、その創造物にあれこれいうのは不敬だから、読者は黙って享受すべきみたいな。だから対価を払うべきというのは偉そうみたいな。そんな考え方もできなくはない。

 

だけど私が作家の立場だったら、良い作品だけ褒められてそうじゃない作品にはダンマリを決められるのは少々辛い。ダンマリを決め込まれると、どこが駄目だったのかわからない。だったらちゃんとどこが駄目なのか教えてもらった方が前進できる。これは独りよがりな考えなんだろうか。

作家の中には「読者の感想が書く力になる」なんて言う人がいるけど、それは「読者の感想(ポジティブなものオンリー)」なんだろうか。ネガティブな感想も書く力にしてるんだろうか。

 

感想をどこかに発表するというのは難しい。

肯定的な感想だったら良いというものじゃない、その解釈は間違っているのかもしれない。否定的な感想は黙ればいいというものじゃない、真っ当な批判かもしれない。

でもその判断ができない。真っ当な感想で発信するべきものなのか、間違った感想でゴミみたいな感想なのか。

 

肯定的で真っ当な感想を書けて、それを作家さんが読んでくれて感謝されたり褒めてもらうこともある。それはもうとても嬉しい。でもそれもまたちょっと怖い。嬉しくてテンションが上がって距離感を間違えて変なリプを返してしまったのではないかとくよくよすることもある。

自分の感想解釈を褒めてもらえるのは嬉しいけど、作家さんに褒めて欲しくて書いてるわけじゃない。でもそのうち褒めて欲しくて書き始めるかもしれない、という怖さもある。

好きな人のことを話せば話すほど好きになってしまって、やがて恋は盲目状態になってしまうあれと似ている。

 

不安だとか怖いだとか迷うとか散々いってきたけど、作家がSNSをやっていることで、自分の感想を読んでもらえてお話ができること、認めてもらえることはとても嬉しいことだ。

それは大前提としてあるけど、やはりどこかでしっかりと一線を引かなくてはならない。作家と読者は友達ではない。じゃあなんなんだといったら作家と読者という関係でしかない。じゃあ作家と読者という関係はどういう関係でどんな距離感が適切なのかというとわからない。誰も教えてくれない。

 

それは作家と読書という関係に留まらず、ユーチューバーやティックトッカー、インスタグラマー等の発信者とその受信者の関係にもいえることだ。

発信する人が増えてそれを受信してその感想を発信する人もまた増える。双方の適切な距離感やコミュニケーション作法を指南する本がそろそろ出てもいいのではないだろうか。

 

『読まれる覚悟』という本があるなら、SNSで感想を発信する読者に向けた『(感想を)読まれる覚悟』という本があってもいいのではないか。

児童書で推し方指南書みたいな本があるのを目にしたことがある。あの本にはそういうことも書いてあるだろうか。大人向けにも書いて欲しい。巻末にはクソリプ集とか付けて欲しい。もし既にそんな本があるなら教えて欲しい。

感想を読まれる覚悟を持つことの重要性をひしひしと感じるけど、それが具体的になんなのかわからない。