ハグは、猫のための餌と水をすこしのためらいもなく床に落として、少し獣臭のする左手と、濡れた右手で、薗のことを抱きしめ返した。ハグの両手は「ゆうき」の両手だった。
薗は、骨ばかりの、異物だらけの躰のままで、わたしはハグのことが好きだと、啓示に打たれるように思った。そうすることで、わたし、を、認識したと薗は思った。それは、生きることそのものだと薗は思った。
フリーハグというものが一体なんの為に存在するのか全くわからなかった。いわゆるパリピみたいな人たちの軽薄なおふざけなんじゃないかと思っていた。だけど、日比野コレコ『たえまない光の足し算』を読んで、それはもしかしたら聖職者の修行に近いのかもしれないと思えた。
底辺にいる人を誰でも構わず無差別級に救う愛
や、そんな人たちにあまねく愛を与えるシステムがないだろうか。
誰にも愛されず必要ともされない人が道端で苦しんでうずくまっていたとして、一体誰がその人に手を差し伸べるだろう。「どんな事情があるかわからないし」「迂闊に手を出したら余計に苦しめるかもしれないし」「こうなるだけの過去が、問題がこの人にはあるから自業自得」みんなそんな風に自分を納得させて、遠巻きに見て通り過ぎるだけで、いつまで経っても誰にも愛されない人はひとりぼっちだ。
これが愛ではなくてお金だったら、生活保護というシステム、セーフティネットがあってどんな理由があろうと、どんな人であろうと掬われるのに、だけど愛は。
「あなたに抱きしめられることで、私は私の形がわかる」なんていう文言は恋愛小説の一節やラブソングの歌詞にありそうだけど、そんなふうに抱きしめてくれる人は恋の相手じゃなくても、いいのかもしれない。
誰からも見向きもされず自分の存在すらあやふやだった人が、誰彼構わず抱きしめることができる人に抱きしめられることによって、他の誰でもないたった1人の私という輪郭がわかる、ということもあるのかもしれない。自分の輪郭がわかり、他者の他者として存在し始めることができるかもしれない。
人を選ばない生活保護によって最低限の生活が送れるように、人を選ばない愛によって最低限の私がわかって、それで生きていけるのかもしれない。
無差別級に愛を与える側の負担もなく、与えられる側にも負担はなく、どちらも踏み躙られず消耗もしないようなシステムはないだろうか。
そんなシステムを人間同士で成り立たせるのは土台無理な話で、だから人は神という存在を作り出したのかもしれない。
神は人を選んで愛することをしない、無償の愛を被創造物に与える存在だ。
神は人を選ぶことも、愛することに理由をつけることもない。
『たえまない光の足し算』のハグは、「みんなのひとになりたいから」「ハグの人生にたったひとつないものが、躊躇いなんだよ」と抱擁師を名乗りフリーハグをするハグは、神に近い存在感だったのではないか。
いや神なんて大袈裟なものでもなく、それは光かもしれない。
神が人を選ばないように、光も人を選ばない。それはあまねく人を照らすものだ。光は私を私と認識しない、私だけじゃなく他の人にも注がれる。
そうした光や愛や優しさは日常に溢れていて、宛先がはっきりしてて強固なものじゃなくても、きっと誰にでも優しい人がくれた小さな親切やちょっとした愛情でも、そういうものの積み重ね、足し算でなんとなく生かされてしまっている。
誰にでも愛想の良いコンビニの店員さんの笑顔だとか、きっと誰にでも優しい人が通りすがりの人に親切にしてる風景だとか、そんなものを見て癒されたりちょっと元気をもらったりしている。そんな些細なものでもハグであり愛であり光なのかもしれない。
唯一無二の個人から唯一無二の個人へ送られる確固たる愛がなくても、不特定多数の人間に注がれるたえまない光の足し算だけでも、人は生きていけるものなんだろうか。
だったら私もそんな光になってみたいものだ。
