最近海外生活や異文化交流を書いたエッセイを2冊読んだ。奈倉有里『文化の脱走兵』と光浦靖子『ようやくカナダへ行きまして』だ。
それで、エッセイっていうのは2パターンあるのではないかと気づいた。
1つはそれまでの日常から飛び出して新たな場所での体験を書いたエッセイと、もう1つは特にどこへ行くわけでもないけど日々の出来事を綴るエッセイ。
私はどうやら前者の方が好きで、後者はちょっと重く感じるようだ。
前者は多くの人が経験するわけでもないものでもいい、つまり私の日常とは離れてて現実逃避できるもの。異文化交流だけでなくちょっと珍しい職業の人が書いたエッセイとか。
後者は私と変わらない日常を書いているけど、私とは感性が違うから素敵にみえるとか掘り下げ方が深いから考えることも深くなっているとか私より丁寧に暮らしていて、同じような日常を送っている分、そうした差異が目に付くこともあり、少々重い。現実逃避ではなく現実を、自分の至らなさを感じてしまう。
深く狭く日常に美しさを見出す感性に触発されて、自分の日常の見え方が変わるエッセイもあるかもしれないけど、日常を離れここではないどこかに意識を飛ばして、疑似的にでも経験の幅を広げる方がいい。疑似的にでも広げることで、視野が深くなるということもある。たぶん。
エッセイというのは経験の積み重ねや経験の幅の広がりを書くものではないか。
広く浅くやがて広く深くなるようなそんなエッセイが読みたい。
深く狭くいつもの日常でもちょっとした工夫と新しい感性で丁寧に暮らしましょう系はちょっとしんどい。もうちょっと気力があったらそれも楽しめるんだろうけど、繊細な感性で日常を丁寧に暮らす元気がないのだ。悲しいことに。
しかし同じ日常エッセイでも丁寧な暮らし系ではなく、日常のちょっとしたことでもどたばたしてしまったり、些細なことを大袈裟に楽しんだりするドタバタ系は好きだ。
エッセイではなくて小説なんだけど、こういうのをずっと読みたかったというものがある。こういうのをエッセイで読みたいと思う。
それは『麦本三歩の好きなもの 第一集』の中の「麦本三歩はワンポイントが好き」という短編だ。
どういう話かというと、図書館司書である三歩が書庫での作業中に停電になってしまい、その中をキャスター付きの椅子で右往左往する話だ。ほぼそれだけ。その描写に文庫本13ページ使っている。ほぼそれだけのことにこれだけ字数を割けるというのがすごい。でもそれは沢山書いてるからといって何気ない瞬間を丁寧に過ごそうとか繊細な感性で味わおうというものではない。だからプレッシャーも感じない。
くだらないことをくだらないまま、何気ないものを何気ないまま描写している。それがいい。
小説は始まりと終わりで主人公が成長するもの変化するものだが、三歩には特にそんなものはない。だけど楽しく終わる。成長しない丁寧に暮らしもしないだけどハッピーエンド、いやそんなハッピーが続いていく。そんな小説やエッセイがもっと読みたい。
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