オスカー・ワイルド「幸福な王子」を久しぶりに読んだ。こんなに政治的な話で、格差社会を書いたものだったとは。貧富の差がすごい。
再読するまでは、王子の自己犠牲精神や貧しい人達への思いから、王子のことを美しく素晴らしい人なんてイメージを持っていたけど、今回読んでみたら、イメージがガラリと変わった。結構自己中な人なんだなと。
死んで彫像になった王子は自分についている宝石を貧しい市民に分け与える。けど、まず市民達が貧しいのは今に始まったことではない。
王子が生きていた頃、王子が人間だった時にもっと経済政策を取っていればどうにかなったのではないか。
貧困には必ず原因があるけれど、この町の貧困は政治で解決できるものに思える。王子は政治に参加してなかったのか。王子がやるべきことは、死後に自分の装飾を剥いで市民に与えることではなく、生前から市民生活に興味を持つこと、政治の力で市民を救うことだったはずではないか。
政治に興味がないのは、王子だけでなく市民もそうで、市民達も自分の生活にしか興味がない。生活で精一杯で政治には関心が持てないのかもしれない。
王子が自分の金箔をはがしてツバメに届けさせ、それが手元に来ても「え?これ王子のやつじゃない?」と気づく人が誰もいないのがそれを象徴している。金箔が降ってわいたと思っているのだろうか。出所が気になったりしないのだろうか。
(でもわかるきもする。不意に幸運が降ってくると偶々だとか自分がラッキーだからだとか思ってしまうのもありがちではある)
だがしかしメインキャラは王子である。王子の話に戻ろう。
先ほど、「幸福な王子」の王子に自己犠牲の精神に富んだ美しい心の持ち主というイメージを持っていたのが、再読で自己満足な王子というイメージに変わったと書いたがしかし、幸福であることに変わりはなかった。王子は幸福な自己満足王子だったのだ。
彼は彫像になって市民社会に置かれ初めて、人間だった時には気づかなかった貧富の差に初めて気づき、もっと対策をしておけばと後悔し、その罪悪感を自分の装飾を分け与えるという一時凌ぎの焼石に水な施しで解消した。そうして自分は民のために善行をなした良い王子だったと自己像を塗り替え満足して死ぬ。そういう意味で幸福な自己満足王子だった。そんなふうにも読める。
そしてこの物語には、市民と王子の他にもうひとり重要なキャラクターとしてツバメがいる。
ツバメは王子の手先として金箔や宝石を貧しい市民を与える役目を担っている。
寒くなってきた街を離れ温かいエジプトに向かう途中だったツバメは、初めはそれを面倒に思って気が進まないが、王子に懇願され渋々聞き入れることにする。何度も何度も王子のお使いをするうちに、ツバメは王子を深く愛するようになり、エジプトには行かず王子の足元で死に、それと同時に彫像としての王子も死ぬ。
ツバメはなんで王子を愛したのか?と言ったらツバメは自由に旅したい王子の心の表れで、王子の理想の姿、分身だからなのかもしれない。(そうするとツバメが王子の前に好きになった「風に靡く葦」は市民のメタファーか)そう考えると、やっと泣けてくるし王子が可哀想に思える。
王子とツバメは、地面に縛り付けられているこの国に縛り付けられている王子の彫像と、国境を越えどんな場所にも自由に飛んでいけるツバメ、という正反対の立場にあり、ツバメは王子がこうありたいと願う姿だ。
ツバメが再三エジプトの話をして早く行きたいと話すのに、王子はその願いを無下にし「そんなことよりこの宝石をあの人に届けて」と返す場面は、王子のこの国を離れて遠くへ行きたい欲と、生前に何もできなかった市民に自己満でもいいから善行を施したい欲の戦いの表れで、結局後者が勝っている。
そう考えるとやっぱりこの話は美しい自己犠牲の話なのではないかと思えるがしかし、宝石を貧しい市民に届けたところで根本的な解決にはなっていない。どうしても焼石に水にみえてしまう。だから王子の「自分は良いことをした」という自己満足のために為されたことなのではないかと感じてしまう。
純粋に自分のためだけの願望を叶える自己満よりも、他者のために動いて他者の願望を叶えたぞという自己満の方が、満足度や陶酔度が高く自己肯定感も高まりそうだ。
そうした意味でもやはり「幸福な王子」は「幸福な自己満王子」だ。
