某月某日
『ムーミン谷の十一月』を読む。
日本での刊行順でいうと最後から2番目の作品だけど、シリーズ発売当初の刊行順では最後になるのがこの作品。
最後の作品なのにムーミン一家が全くでてこないというのがすごいところで、ムーミン一家不在のムーミン谷でスナフキンやホムサ、フィリフヨンカがムーミン達を思うことで彼らの存在が際立っている。
シリーズのメインキャラクターの存在を不在によって際立たせるということがとてつもなく粋だ。
その人がいない時の存在感って、一緒にいる時の存在感とは少し違うもので、それはそれで味わい深いもの。
「一緒にいる時よりも彼といない時の方が彼のことを好きみたいだ」という江國香織の名言もある。たぶん『赤い長靴』。
ムーミン一家、ムーミンママの不在を特に感じているのはホムサというキャラクター。
ただ、しんせつなだけで、人のことが、ほんとうにすきではないような友だちなら、ほしくないや。それに、自分がいやな思いをしたくないから、しんせつにしているだけの人もいらないや。こわがる人もいやだ。ちっともこわがらない人、人のことを心から心配してくれる人、そうだ、ぼくは、ママがほしいんだ。
私は年齢的にホムサというよりも、ムーミンママよりの人間なので、ママの立場に立たされてこういう理想のママを求められると辛いものがある。
でもホムサのように、こんなママが欲しいという気持ちもよくわかる。
その上で、最後の方でホムサがママの悲しみや疲れや怒りに思いを馳せるようになるシーンにはグッときた。
ママは生まれた時からママではないこと、親も1人の人間だと気づく時は誰しもに訪れるもので、それが大人になる瞬間でもあるだろう。
某月某日
『レモネードと彗星』を読む。
言葉使いとか感性が、今の若者!という感じがしてみずみずしく躍動していて楽しい。
書かれていることは割と不変的なことなんだけど、それが若者のみずみずしい言語感覚で書かれているから、慣れ親しんだ感覚でも新鮮に痛く感じてしまう。
「皮膚の内側と外側の両面にトゲを持つシュールなハリネズミ」とか「私の孤独は鎖のちぎれた錨のように深まった」とか。どちらも「純粋個性批判」という短編からの引用なんだけど、特にこの短編が痛くって、残り数ページのとこまで読んで、「もうやめてくれっ!!」となり小休止するほどだった。
読み進めるなかでチクチクとトゲで刺され続け、残り数ページのところで共感性羞恥というかなんというかで仕留められ、休んだ後にまた読んだその数ページで、いまさっき仕留めらた時には想像もできなかった暖かい終わりを迎え、両方向に激しく揺さぶられた。
スクールカースト上位の女子たちを横目に教室の隅でオタクトークを繰り広げる女子二人組が好きな人にはぜひ読んでほしい短編だ。
しかしこの作者、文体は若いけど、村上春樹や谷川俊太郎の作品をもじったような表現がちょくちょくでてきて、その元ネタの古さから実はそんなに若くないのかな?とも感じる。
でも村上春樹や谷川俊太郎は、もう若者からしたら教科書的存在歴史的人物で、その距離の遠さから、こうして作品内に紛れ込ませるのかもしれない。
そう考えるとこういうやり方も若者っぽい。
某月某日
益田ミリ『上京十年』を読む。
『考えごとしたい旅 フィンランドとシナモンロール』を読んで好きになって、『美しいものを見に行くツアーひとり参加』を読んでもっと好きになって、また『考えごとしたい旅〜』を再読した。
ここまで好きになると、益田さんの読んだことのないエッセイでも「ほぼほぼ好きだろう」とハズレを引く心配がなしに心やすく手に取ることができる。
『上京十年』も良い。
たまに、私はこの一文を読むためにこの本を読んだんだなと思える一文、まるで私を待っていてくれたように感じる一文に出会うことがある。数年に一度あるかないかの邂逅だ。
益田ミリさんの書くものは、やはり良い。
そしてやっぱり欲しい言葉をくれるのはいつも本だ。





