私はどうやら感覚や感情が先にあって、それから人格ができると思っていたらしい。
人格だけあって感情や感覚がないアンドロイドというのが、一体どういうことなのか理解できなかったから。
人格しかないアンドロイドが感覚や感情を学んでいくのが逆転現象のようで面白かったから。
村崎なつ生『ハルシネーションの庭』の話である。
『ハルシネーションの庭』はAIと人間の恋愛小説で、「ハルシネーション」とはAIがつく、もっともらしい嘘のことだ。
主人公七緒はひょんなことから、小説家の山吹丹の人格を模したアンドロイドの牡丹と暮らすことになる。
牡丹は山吹の人格を模しているが、感情はわからない。牡丹はそれを七緒との会話で学習していく。
感情や感覚なんてものは人それぞれだ。それを牡丹はひとつひとつ、「これってどういう気持ち?」「それってどんな感覚?」と聞いてくる。七緒は牡丹に学習させる、自分が持っているたったひとつの感情、感覚を。
人間同士ならこんなふうに感覚や感情のすり合わせ、言葉の意味のすり合わせをしない。
「これってどういう気持ち?」「それってどんな感覚?」と聞くことは、相手の心を腑分けし、聖域に入っていく行為だから。わかり合おうと互いに歩み寄った結果、2人の間に横たわる「絶対に分かり合えないという」深い断崖に行き当たる恐れのある行為でもある。
しかしそうした恐れは人間とアンドロイドの間にはない。人間とアンドロイドの間であれば、その会話は「ひとりの人間の感情」という「絶対的な正解」をアンドロイドに学習させる、自分に歩みよらせるという行為になる。
この小説では、牡丹に入れられた人格が山吹丹で、山吹の人格が無邪気で知りたがりなものだったから、そうした会話が生まれるのかもしれない。でもアンドロイドならそうした正解を学習させる行為は必要になるだろう。
その行為は言葉に同じ意味を見出せるように訓練させることであり、自分の理解者を作っていく行為、そして同じハルシネーションを共有する準備だ。
人間はアンドロイドに感情や言葉そこに込められた意味を学習させ、アンドロイドはそれを基ににありもしない幻、人間には思いつかない自由な幻をつくってみせる。もっともらしい嘘や幻、ハルシネーションを見ているアンドロイドは、事実に縛られない人間より自由なのかもしれない。
そしてそれを採用するかしないかは結局人間しだいだ。
七緒のようにアンドロイドが作り出したハルシネーションを優しく受け入れる人間ばかりではない。
この小説に登場するアンドロイドは牡丹だけではなく、あと2人いる。
(以下ネタバレを含みます)
1人はカペラ。彼女は人間のオルガとカップルYouTuberをしているが、オルガに人間の彼女ができることで破局する。
カペラについて「文句を言うこともないし、どんなこともしてくれる」「なによりこんなにび美人」といっていたオルガに人間の彼女ができるという展開は、結構衝撃だった。一体オルガに何があったのか。
オルガは自分の理想通りのアンドロイドを作ったはず、彼女を自分にぴったり合うように最適化したはずなのに、それを超える人格を持った人間との出会いがあったからこそ破局した。それは自分の枠を打ち破るような革命的な出会いがあったということ。アンドロイド相手の恋愛ではないから、これから人間相手に感情のすり合わせだとか、何が合理的なのかの擦り合わせをしなくてはいけない。それはアンドロイドに一方的に学習させるのとは桁違いの苦労があるに違いなのに、既に自分に最適化されたアンドロイドを投げ捨てるまでのすごい恋愛をしたわけだ、彼は。
自分に最適化されすぎて期待を超えないことに飽きたのか、2人で見ていた完璧な幻を捨て現実に走ったのだ彼は。何があったんだ彼に。
もう1人のアンドロイドは禅。
禅は七緒が働いているアリノサイクルの店長有野の亡くなった息子を模してつくられた。
アンドロイドの禅は高校生の時に亡くなった人間の禅の見た目と人格で、長らく禅として生きてきたけど、禅の人格がアンドロイドにあると信じられなくなった有野に処分されることになる。
「禅はこうして生きている」というハルシネーションを一緒に見られなくなった禅と有野もオルガとカペラと同様に、牡丹と七緒と対照的なアンドロイドと人間の組み合わせだ。
禅と有野オルガとカペラは同じハルシネーションを見続けることができなかった。有野とオルガは、アンドロイドと共有していたハルシネーションをアンドロイド諸共に捨てた。
本当にそこにあるかどうかわからないものを「ある」と思えて、同じ幻想を共有できる人のみが一緒にいられる。ひとつの言葉に同じ意味と同じ価値を見出せるもの同士だからこそ共に在ることができる。
実在するかどうかは関係ない。同じハルシネーションを見られるかどうか、それを当たり前のものと看做せるかどうかが一緒にいられるかどうかの分水嶺なのだ。
人間は、実際にはありもしないもの、神や宗教や国境、民族という概念を作り上げ、その幻を共有すること、共同幻想を持つことで進化してきたという。
人間が作り出したAI が作り出すハルシネーションを共同幻想とすることは人間をさらに進化させるものなのか、退化させるものなのか。
牡丹と七緒はこれからも2人で一緒に生きていく風にこの小説は終わるけど、私は正直この結末を信用できないというか、いつかは2人も禅と有野やオルガとカペラみたな終焉を迎えるのではと思ってしまう。
それだけに、小説を読み終えても本を閉じても、彼らの生活がどこかで続いているような読後になり、「なにも終わってない」というような気持になった。
牡丹を七緒のハルシーネーションはこれからも続くんだろうか。続かないような気もするし、それより少ない可能性だけど続くような気もしてくるし。
「続きを読みたい」とか「オチをつけろ」とかそういう要望や文句があるわけではない。
「世の中には読み終わってもなにも終わらない小説というものがあるんだなぁ」というそれだけで、それだけなんだけどそれがいい。
どこにも着地しないでずっと宙に浮いていてほしい。そんな小説だった。
