自身の家を設計した建築家と、そこに住み個人塾を経営した女性、最後に住んだ夫婦、子供の頃建築家の家を何度も訪れ取り壊しが決まったその家を惜しみ家の中をスケッチしてまわる青年が主だった登場人物だが、家そのものが語り手であるようにも感じた。
それも、おとぎ話的な擬人化ではなく、建築の専門知識に基づく家の擬人化なのが面白かった。もしかしたら、ただの三人称小説なのかもしれないが、家が語り手だと思う方が楽しい場面が多い。
靴下で踏んだのはナラのフローリングだった。足の裏から彼を支え、そのフローリングを大引きが、大引きを土台が、土台を基礎が支えている。そうして彼はまるで自力で立っているようにしてそこにいた。
とか。
そして、実家の片づけをしている身としてはつらいところのある小説だった。
写真を見て初めて思い出す学生時代のことや友達との旅行、そこに確かにあった瞬間や感情、カメラを通してではなくこの目で見た景色、その場で感じたにおいや空気。
写真をきっかけに蘇ってきたけど、その写真も全部捨てなきゃいけない。その写真を捨てたら記憶や気持ちや空気はどこへいくのか、なくなってしまうのか。じゃあ全部要らないものだったのか、思い出す価値もないものだったのか。
あれもいらないこれも要らないと捨てていって一体今になにが残るというのだろう。
自分の感情や感覚もまた湿気のように揺れ、密度や形を変化させ、振り返るたびに少しずつ違っているような気がした。
思いを寄せる先に正しさも定まった形もなかった。今という時点から想像するあの時の自分や他人の感情や思いはもう過ぎてしまったものだから、正しさなどそもそもないのだった。思い出すたびに少しずつ違うことを考えていたり、違う言葉を口にしたり、違う順序で動いたりもした。
色んなことを全部忘れても、思い出のトリガーとなる物質が失われても、そんなことがあったことは、私の価値観とか生活態度、言葉選び、人との距離感、すべてに残っている。物も記憶もなくなっても、それがあったことの証明に今現在の私がなっている。そういうことでいいのか。
この小説では家を壊すことによって、みんながみんな過去の拠り所となるところを失っていたけど、私は違う。実家を片付けなければならないのは私だけだ。兄は住み続けるから思い出の品たちを捨てることはない、義姉は自分の実家にそれがあるだろう、甥や姪はこれからこの家で数々の思い出を作っていくだろう。
拠り所がない、確固たるものがない。過去にも未来にもつながっていない気がするけど、過去の痕跡が壊されていくのを見るだけの現在、という心もとなさを登場人物たちは感じていて、それは私も今まさに感じていることなのだけど、私の話はこんな風に小説にならない。
誰も書いてくれない、物語にならない。私の過去が失われることを惜しむ人は私しかいなくて、その私を物語として残してくれる人もいない。誰も覚えててくれない、自分でさえも。ただただ消えていく。
過去という形で確かに現在にある過去が、記憶の拠り所になる家を失いつつあることで失われようとしている。過去が失われた過去としてなくなろうとしている、その様が物語になっていることや、こうして物語にしてくれる人がいるこの小説の登場人物たちが羨ましかった。
小説は「絵に描いた餅」だし、それを読むことで初めて自分の空腹に気づくし、だけど現実には空腹を満たしてくれる餅などないし、なぜこの小説があるのか、存在する意味はなんなのかと思ってしまう小説がある。
今までドラマや映画など映像に感じてたことだけど、最近は小説にも多くなってきた。
これは感想文というよりただの愚痴である。
これから生きる時間、先に伸びてゆく果てしなさと、その長さの中で消失してしまうかけがえのないはずの記憶の多さに打ちひしがれた。そして、ひょっとすると自分はすでにとっくに多くのことを思い出せなくなっているのではないかと思った。自分が生きた三十五年の年月ですでに無数の記憶が一度も思い出されることなく埋もれている。それは忘れてしまっているということとどう違うのだろうか。
