畠山丑雄『叫び』の主人公ひかるは彼女と同棲するために茨木に越してきたものの、しかし彼女はその家に越してこず、連絡も途絶える。以後彼は37歳にして余生に入ったようになり、生きたいとも死にたいとも思わず日々を過ごしている。
そんな日々の中、深夜の散歩中に聞こえてきた鐘の音に惹かれたことがきっかけで銅鐸を作る男と出会う。彼を「先生」と呼び共に銅鐸を作ることになるが、「歴史の勉強も銅鐸づくりも等しく一つの手段にすぎないという。では目的はなんであるかというと、ひとまずは聖になることである」という先生の言葉で郷土史も学び始め、満州で罌粟栽培の指導にあたっていた川又幹朗という青年を知ることになる。
そうして無為に過ごしていたひかるの人生は先生と川又によって大きく狂わされていく。
乾いたスポンジほどよく水を吸収するように、空樽ほど音が高くなるように、先生と川又に感化され饒舌になっていくひかるの様をみていると、みんな何かの物語に乗っかって飲み込まれて流されて生きていきたいんだなぁと思えてくる。
その「物語」というのは叫びと形容してもいい。誰かの叫びで震えて自分にも心というものがあるって気づいて、共振してるだけかもしれないのに、それが自分であり物語であり、自分自身だと思っている。
蛍が死んで光らなくなれば、ただの虫になるように、物語や叫びという光がなければ人は生きてることに価値を見出せない。
人の叫びが物語が、自分の叫び自分の物語だと思えてきて、その考えにしがみついて狂っていってそれが多数の人に受け入れられたら、それが正解で正常になる。より多くの人に受け入れられ共鳴してもらえれば。
そうして叫びは伝播していく物語は広まっていく。
先生がいう「蒙を開く」とはそういうことではないか。一種の洗脳というか布教というか。それが正しいことだから布教して蒙を開くのではない、多数の人に受け入れてもらって、それを正しいことにするのだ。
主人公のひかるは先生や川又の叫びに共振したあげく共鳴しているだけ。
この主人公の名前は「ひかる」だ。鐘の先生に共鳴して物語の継承者になったけど、光は音より早い。
万博会場を訪れた天皇に、天皇に贈るための花束として罌粟畑栽培に精を出し、その働きを天皇に認めてもらいたい川又の代わりに、それを伝えようとし捕まったひかるは、「蒙を啓かなあかんのです」「そのために僕は鐘を鳴らしてるんです。響きが光になるまで、鳴らし続けなあかんのです」という。
天皇は太陽の子孫で光の象徴だ。ひかるは先生よりも音よりも力強く早いスピードで物語を伝播させるべく、天皇に代わって太陽神にでもなるつもりなのだろうか。それが先生の言っていた聖になるということだったのか。
「空樽は音が高い」とはよくいったものだが、無為にすごしていたひかるが、先生や川又の叫びに共鳴し、そしてその音を超え光になろうとしている。そうなったら、誰も届かずひかりを止めるものはいないのかもしれない。光より速いものはないのだから。
そうなってもひかるは孤独ではないのだろうか。誰も追いつけない光になったひかるには、誰かの叫びに共鳴していた時代の方が楽でしあわせだったなと思う日なんてこないのだろうか。
