某月某日。
益田ミリ『しあわせしりとり』を読み始め読み終える。新大阪から帰る新幹線と東京から地元へ帰る電車でのちょっとの時間で。
前に名古屋へ行った時も帰路で、名古屋の書店で買った益田ミリさんのエッセイを1冊読み終えた。
旅行の間は本を読む時間が取れない。車窓の風景を眺めたりアナウンスで聞いたことのない駅名を聞くのが楽しい。
だから帰りの新幹線で1冊本を読み終えられることは、旅行の締めくくりにいい。旅行で本が読めなかった分を取り戻せる感じがする。ちょっと読書に疲れたら、車窓を見るのも贅沢な気分転換になる。
一週間には名前がついている。月火水木金土日。「今日」に名前があることを、急にかわいいと思ってしまった。今日は土曜日。しりとりで「ド」に当たったとき、「ドヨウビ」と答えるのはステキだと思う。
某月某日
トルストイ『イワン・イリイチの死』を読む。大阪のジュンク堂で買ったやつを早速。
前に図書館で借りて怖くて打ちのめされて、でも怖いもの見たさでまた読みたいと思っていたやつ。
前に読んだ時よりも「死ぬの怖い!」とはならなかった。死ぬのが怖いというよりも、イワンが死ぬ前に感じた後悔とか虚しさとか惨めさが辛くて、同じ思いをすることが、死ぬ前にそんな思いをすることが怖かったんだろな。
でもそんなのは今はもう日常的に訪れるものになってしまった。
某月某日
E・R・バロース『ルータ王国の危機』を読む。
どこかの書店で「書店員の熱望により再販!」みたいなポップがついていて、つい手に取っちゃったパターンのやつ。
『王子と乞食』のように、王様とそっくりの見た目をしている平民が起こす大騒動。
王様に間違われている方は「俺を王様だと思うなんて狂ってるな。でも狂人には話を合わせないと」と思っており、王様だと間違えている方は「王ではないというなんて狂ってるな、でも狂人には話を合わせないと」と思っており、話が嚙み合っているようないないような、擦れ違いコントをみているような面白さ。
こういうあらすじなら、こういう役割のキャラクターはだいたいこういう性格だろうという予想を裏切られて先が読めなくなるのも楽しい。
そして、「一難去ったらまた一難」が延々と続いて、『24』みたいな『ダイ・ハード』みたいでもある。強い男がピンチに襲われ続けるエンタメって面白い。
某月某日。
オスカー・ワイルド「忠実な友人」を読む。
小男のハンスと大男のヒューが主な登場人物なのだが、裕福な妻子持ちのヒューは貧しい独り身のハンスに「友達なんだからこれぐらいやって」とか「手押し車あげるんだからこれぐらいやってくれなきゃ」と、無茶振り搾取搾取の連続で、それが遠因となりハンスを死なせてしまう。
この話の中で唯一ハンスに同情的なのは、ヒューの息子なのだが、ハンスに対して分け与える心を見せる息子にヒューは「なんて馬鹿なやつなんだ!せっかく学校に行かせてるのに何の役にもたたない!」的なことをいう。
いや、学校行っているからこそ計算ができて論理的思考ができて、自分が多くのものを持っているという客観的思考ができて、より少ない人に分け与えようとする思考が生まれるのかもしれないな、となる。
やっぱり私はどうしても優しさって知性だと思うのだ。もちろん知性を自分が得するためだけに使う人はいるし、学校の勉強ができるという知性と優しさの知性は全く同じわけではないのだけど。
優しい人はどんな人であろうと、ある種の知性がある。ような気がする。
某月某日。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いはだれだ』を読む。
そんな子供時代は送ってないのに、「わかる!私も同じような子供だった!」とない記憶が蘇ってくる。
いじめられたこともないし、笑い者にされたこともないのに、その恥ずかしさや惨めさが蘇ってくる。これは一体どういうことなのか。
大人になってから経験した恥ずかしさや惨めさを子供時代に当てはめているのだろうか。
「ない記憶が蘇ってくる」ということのシステムはよくわからないけど、人間の共感能力ってすごい。
抽象的思考とその援用みたいなことなんだろうか。