某月某日。
オスカー・ワイルド「スペイン王女の誕生日」を読む。
王女の誕生日に踊りを見せて、王女から白薔薇をもらった珠儒(こびと)は有頂天になる。王女に自分が生まれ育った森の木々や花々を見せてあげようとウキウキするも、王宮内で初めて鏡を見た彼は、自分の醜さに大きな衝撃を受け絶望し息絶えてしまう。
彼は世界の美しさも知っていたし、王女という好きな人もできて幸福の頂点にいたのに。
彼には小鳥や蜥蜴という、自分を認めてくれて大好きでいてくれる存在もいたのに。
生まれて初めて見た自分の姿、「自分が醜い」という一点のみで絶望し死んでしまうのだ。
世界の美しさとか愛してくれる存在とか全部塵芥になって吹き飛ぶくらいの衝撃なのだそれは。
ワイルドはナルシシズムを書く作家というイメージがあるけど、この話もこれはこれでとんでもないナルシシズムで、だけど自分が美しくないということがそれだけ受け入れられないものだということは、なんかわかる。
でも、「自分が美しいとか醜いとかどっちでも良いじゃないか!世界が美しくて愛してくれる人がいるなら、それだけで生きる理由になる!!!」という気持ちにもなる。
某月某日。
御子柴善之『自分で考える勇気 カント哲学入門』を読む。
大学生の頃に哲学講義で学んだカント哲学と言ってることが変わらなくて、懐かしいというか感慨深いような気持ちになった。まぁ、カント哲学が変わらないことは当たり前の話なんだけど、変わらないってすごいな、ずっと同じことを説明する本が出続けるし、あの教授は毎年毎年同じことを教えているんだろうなと思ったら気が遠くなる思いすらした。廃れないというか普遍ってすごい。
カントは、「(自分が)幸せになろう」とすることは、人間にとって当たり前のことだから「他人の幸福」を目的にすべきであり、それが義務だということを言っている。
その理屈はわかるし美しいしそうできたらいいけど、心身共に元気でないと他人のことはそんなに思えない…となってしまい、やっぱり私は「体が資本」主義から抜け出せない人間なんだな、となった。
某月某日。
アントニ・バージェス『時計じかけのオレンジ』を読む。
いったい神さまは何を望んでおられるのか?神は、善良であることを望んでおられるのか、それとも善良であることの選択を望んでおられるのか?どうかして悪を選んだ人は、押しつけられた善を持っている人よりも、すぐれた人だろうか?たいへんに深遠でむずかしい問題なんだよ、六六五五三二一君。
学生の頃クラス全員でZINEを作ったことがある。みんなで編集方針を決めたのに、編集の子がそれを全く反映せず自分のやりたいようにやった見本を出してきた。みんななんとなくふんわり説得し続けていたのだけど、全く響いてないようだったので、私は埒があかないなぁと思って、「みんなで決めたことなのに、編集という最終権限を持った人間がそれを汲まないのは暴力的だと思う」と言ったことを思い出した。
その子は「暴力的じゃない!」と言ったものの、それを最後になにも言わなくなり結局みんなで決めた編集方針のものに作り直してきた。
この引用箇所を読んで、というかこの小説を読んで、私は多数決という「善」を押し付けていたのかもな?それはそれで、善を押し付ける暴力だったのでは?と思った。(「埒が明かないな」という私の態度も一体何様なのだと今なら思う)
押し付けられた多数決(善)に従うことよりも、それに従わずに自分のこだわりを貫く(善からしたら悪)方がすぐれた人なのでは?と思えてくる。これは確かに深淵で難しい問題だ。
善と悪の二択があって、その中で善を選ぶからこそ善は尊いのかもしれない。でも悪は絶対選んじゃいけないわけで、そんなのは実質、善一択なわけで、それは結局善の押し付けでしかない。
某月某日。
田辺聖子『猫なで日記 私の創作ノート』を読む。
もちろん、私は男ではないので男性心理なんか分らない。しかし、こうもあろうかと手さぐりで書いている。所詮、女の指で描く円周のうちにある男でしかない、そういう憾みはあるが、自分で理解できる範囲で書いている。
「女の指で描く円周のうちにある男」!なんてかっこいい言い回し!
田辺さんは自分の好みの男しか書けないという。どうせ書くなら好きな男、苦労するなら好きな男と、という意味らしい。
これは田辺さんだけでなく女性作家だけでなく、男性作家のうちの誰かもそうなんだろうな。
たまに、男性作家の書く小説は女性が上手く書けていないだの、こんな女は現実にはいないだの言われているけれど、それもなんだかもっともな話がというか、ある程度はしょうがない話で。やはり理想を書いてしまうし、読む方もそこに理想を見つけて楽しんでしまうのだろう。
私も西加奈子『きいろいゾウ』とか三島由紀子『しあわせのパン』に出てくる、メンタルが不安定だったり大きな傷を抱える妻を支える包容力のある夫とか、現実にはそんなのいないだろうなという小説の中の男が好きなので、男性作家の書く小説の中の女を声高に否定はできないのだ。