野崎まどさんの作品には『2』という作品があり、それは『[映]アムリタ』『舞面真面とお面の女』『死なない生徒殺人事件』『小説家の作り方』『パーフェクトフレンド』の5冊を読んでからの方がより楽しめるという作品らしい。私はそういうものに弱い。積み重ねて積み重ねてやっと到達できる楽しさとか境地とか、そういうのに弱い。
野崎さんの作品は『小説』しか読んだことがない。まだ好きな作家さんというわけではないので、いきなり6作品も読めるのかとちょっと不安だけど、『小説』面白かったし、まぁいけるだろうと、読み始めることにした。
『[映]アムリタ』
小説にしかできない映画の話だった。
天才だとか美だとか映像にすると、本当にそれが天才に見えるのか美しいと感じるのかは「人による」ということになってしまうけど、小説では誰もが認める天才や美を描ける。
言葉だから、それを読む側が思う天才や美を引き出せて、そのイメージを他の誰かと共有する必要はない。そのページを読んでいるたった1人の人間のイメージを喚起させればいいのだから。
だから小説という言葉を使う芸術は最強なのではと思えた。
ラノベっぽいノリはいっぱいあったけど、かろうじて読み流せる程のノリだったし、ツッコミが面白いから良かったというか助かったというかありがたかった。
ラノベっぽいノリと映画や天才が人に与える影響の重さのバランスが絶妙だった。
『舞面真面とお面の女』
1人でPDCAを回していると、最低も最高も全部予想通りで飽きてくる。
そんななんとなく予想がついている毎日で退屈している時にある少女と出会うという、ボーイミーツガールの話だった。
だけどガールに会って予想外なことがあっても、結局その先のハッピーエンドはありきたりで予想通りで、後々飽きてくるのでは退屈な日常があるだけなのではと思えてくる。
「どんでん返しで面白かった!」で終われる読者はしあわせなのかもしれない。どんでん返しが終わった後の予想通りのしあわせや予想通りの成功した人生に付き合う必要はない。
いや1人でPDCAを回しているからではなく、その人がめちゃくちゃ頭が良いから飽きてくるのかもしれない。むしろ誰かとやっている方が飽きる前に絶望してしまうかもしれない。
誰も自分の頭の回転の速さについてこれなくて、誰も同じ景色を見てくれない、同じことを考えられないというのは孤独なものだから。
だから誰でも良いから誰かと一緒にPDCAを回すのではなく、自分と対等なあるいは自分より頭の回転が速いガールと出会えたからこのボーイはハッピーになれたのだ。
誰よりも頭が良い人ってやっぱり誰よりも孤独だ。
『死なない生徒殺人事件』
「自分の知っていることしか教えられるない」というのはそりゃそうだろうけど、じゃあ何を「知っていること」とするのか。
人に教えられるぐらい整理できていて言葉にできていることを「知っている」というのだろう。
私はどれだけのことを知っているのだろう。
感情を人に伝えられる知にして、受け手はその知からその人の感情を理解してくれるんだろうけど、たまに知抜きで感情と感情のぶつけ合いをしてる人たちもいる。
しかしこの作品にでてくる永遠の命を持つ人間はそうした関係を他者と築くことは難しそうだ。全ての感情を感じ終わって知として知ってしまっているから。
永遠の命を持つ存在と永遠ではない命を持つ存在は対等ではありえない。この存在もまた、誰より頭が良い人と同じく誰よりも孤独だ。
『小説家の作り方』
目の前に無限の可能性が広がっているようにみえて、どれも間違いのようで一歩も動けない。
そういう時、一旦間違えてみようとするのも一つの手だ。間違えてみないと正解がわからない。間違いを重ねて初めて正解の方向が見えてくる。
だからトライ&サクセスではなく、トライ&エラーというのかもしれない。
前作までを踏まえると間違えることができるって、予想通りにはいかないって、すごくラッキーなんだなと思える。全部予想通りで正解を出し続けることよりも、飽きずに楽しめそう。
「正解はひとつだけ」とはいわないけど、正解より間違いの方が数が多くていっぱい間違える方が色々経験できて楽しいのではないか。
『パーフェクトフレンド』
論理の積み重ねでこのまま論理的な話で終わるのかと思わせて、その論理の山の上に非論理の悪魔的魅力を載せてきたー。
非論理の無限の可能性を論理で押し切られた感じがしてなんかすごい。
ここでも周囲より賢い人の孤独が書かれていて、初めて対等に話せる人ができて嬉しいと感じる人がでてくる。
でも「初めて対等に話せる人ができた!」と思っても、その相手は対等なのではなくて自分より頭が良い人で、自分より頭が良い人に初めて出会っただけだったりする。自分より頭が良い人だからこそ、こちらの目線に合わせてくれているだけなのだ。だからこちらは対等だと思っていても、向こうは対等だと思っておらず、物足りなさや孤独を感じているかもしれない。
野崎さんの理系の使い方ってSF過ぎずミステリ過ぎず好きだ。
私が初めて読んだ野崎まど作品は『小説』で、それしか読んだことはなくて、小説とはなにかという疑問に理系的に答えを出した作品だなと思っていたけど、『小説』以外の作品でも割とどれも論理で理系な考えを積み重ねていた。
『2』
あなたは私ではないから、私じゃない人だからあなたには無限の可能性があって、私ではないあなたはそれだけで魅力がある。
だからってなんでもしていいわけじゃないんだけど。なにかしてくれるはずだと全ての期待を乗せていいわけじゃないんだけど。
アムリタシリーズはずっと「創作とはなにか?」を書いてきたと思うんだけど、ここにきて最後にきて、創作者のエゴが大爆発していてエグかった。ここまで傍若無人でグロテスクな人みたことないというか。創作物史上1番のエゴイストがいた。
自分が作ったものを上手く手懐けている分、怪物をつくりだしたフランケンシュタイン博士よりもグロテスクかもしれない。
フランケンシュタイン博士は自分が作り出したものを放り出してあとは責任を取らないけれど、ここでの創作者は自分の孤独と欲望の範囲内でずっと創作物を飼い慣らしている感じがする。創作物に自由を与えない。作ったものを野に放って責任を持たないのもエゴイステイックだけど、創作物を自分のエゴの中で飼い殺しするようなことをエゴがすごい。
でもこのシリーズではずっと、誰よりも頭が良い人間の孤独とか、誰とも対等な関係を築けない永遠の命を持つ人間とかを書いてきて、その積み重ねの上に書かれているから、天才的な創作者にも同情の余地が生まれてしまっていて、よくわからないけどそういうものなのかなぁとか思わせられて、ちょっとずるい。
私的にはそれは非論理的であり得なくてエゴにしかみえないんだけど、それさえも「論理の上に積み重ねらた非論理の素晴らしさ」も前作で書かれているし。非論理的なエゴが作り出す創作物の素晴らしさなのかこれは、とも思わされる。
なんかなんかずるい。
「創作とはなにか」が書かれているシリーズだと聞いて読み始めたけど、「対等な関係とは可能なのか」をずっと書いているシリーズだった。