本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

55.『友達じゃないかもしれない』

日記は読み返すと自分が他人みたいに感じるのが嫌だったけど、それなら過去の私を他人として自分ととことん話し合う交換日記みたいにしたら楽しいのでは?と、上坂あゆ美さんとひらりささんの往復書簡『友達じゃないかもしれない』を読んで思った。

日記を書くことで知らない自分と出会ったり、もう過去になってしまった自分を出会い直して語り合うことでしか出会えない自分がいそうだし。

 

私には2人みたいに腹を割って内臓を見せ合えるような人はなかなかいない。こちらが腹を割って話しても、相手が「難しい問題だね」「そうなんだ」としか返せないような内臓が出てくるだけ。たぶん私に付き合える人は私しかいない。

いや自分ですら付き合いかねている。最近このブログをZINEにまとめようとここ一年で書いた記事を読み返しているのだが、なんでこんなことを書いたのか、こんなことを考えていたのかと思うことが多い。どういう思考回路でなんでそんな感情が沸き上がってこんな文章になったんだ一体、と自分の文章を読んで思う。過去の自分と今の私は一体どういう関係なんだろう。同じ自分とは思えないけど、じゃあなんなんだろう。

 

『友達じゃないかもしれない』はお互い爆弾を投げ合って内臓を飛び散らせ、その内臓を品評しあっているような往復書簡だ。こう書くとずいぶんと物騒なことをしているようだけど、心理的安全を感じているからできることでもある。しかしその安全が崩れそうなギリギリを攻めているヒリヒリ感もある。

この人たちはほんとになんなんだろう。友達なのか。友達だとはいえないような気がするけど、友達だというならばそれは戦友というものに近いような気がする。味方同士ではなく敵対しているんだけどなぜか通じ合ってしまっている戦友みたいな。お互い投げつけられた爆弾を処理しあっているような。

 

私には2人みたいに自分の言葉という爆弾を投げられてそれを受け止め理解してくれるような人がいない、そんな爆弾処理班みたいなプロはいない、しかし私ですら私の言葉を処理できない。私は私に向けて爆弾を投げないで欲しいとすら思う。

花火のように遠くから眺めているのが、遠くから爆発しているのを眺めているのがちょうどいい。美しく楽しくみえる。一瞬にして消える言葉、どういうカラクリでそんなふうに打ち上がったのかわからない言葉。そんなものを作りたくて私は文章を書いていたのではないか。

しかしそれをZINEにしようとしているのは一体なぜだろう。

一瞬にして消えるはずの思いを書き残して埋めて、過去の遺物と化したそれを掘り起こして、ひとつのまとまりとして綺麗に整えて残そうとしている。これは過去の自分の考えや感情を整理して、「こういうことが言いたかったんだよね?」と返事をする作業なのだろうか。そう考えると私はこの本を読む前から自分との往復書簡を初めていたことになる。

自分との往復書簡はなかなか難航している。面倒くさい。量が多い。内容的にも読んでいて面倒くさいものが多い。でもそれをやることでしか掴めない何かがあるはずだと思ってやっている。一体何があるというのだろう。私は私と戦友になりたいのだろうか。