某月某日。
ジーン・ウェブスター『おちゃめなパティ』を読む。タイトル詐欺というか裏切られた感がある。おちゃめというより性悪なのでは?という裏切り方。裏切り方の中でも想像の範囲外の裏切り方でちょっと楽しくなってくる。こんな可愛い表紙で「おちゃめ」という形容詞が使われてるのにやっていることは性悪でギリ虐めでギリアウトでやりすぎじゃない??となる。あとなんか善意の押し付けになっていない…?と不安にもなる。
これは今のモラルで読むからなのかなぁ。発売当時は「おちゃめ」だった可能性はある。
ずっと積読だったこの本を手に取ったきっかけは、このあいだ書店を徘徊していた時に『おちゃめなパティ、カレッジへ行く』が「あの『あしながおじさん』作家のデビュー作!」みたいな帯を付けられ並んでいたのを見たから。ジーン・ウェブスターのデビュー作って『あしながおじさん』でも『おちゃめなパティ』でもなかったんか!という思ってた時系列が歪む感じが面白かった。そういえば、『続あしながおじさん』も積んでいる。まだ『あしながおじさん』しか読んでいない段階でだいぶジーン・ウェブスターに惹かれていたらしい。
某月某日。
百年文庫『川』を読む。
織田作之助『螢』も日影丈吉『吉備津の釜』も良かったけど、話したいのは室生犀星『津の国人』について。
『津の国人』は昭和の男みんな大好き待つ女の話である。こういう話は「ゔっ」と嫌悪感が湧き出るものだけど、(待つ女の話だと気づいた瞬間は湧き出たが)これは純粋に本当に待っているだなと感じられて良かった。清らかな愛情、慕情があった。
「こういう女っていいよねぇ」とか「こんな風に女を待たせる俺」「こんな風に待ち続ける私」みたいな陶酔がなかった。他の男を待つ女を待っている男もなんか良かった。ほんの一瞬垣間見える嫉妬やら憎しみもまた良かった。
なんだろう、待つ女話の源流だからだろうか。こういう話は擦られ続け、物語化され続けて「よくある美しい物語に登場するような自分」という陶酔感がでてしまうからいけないのだろうか。
それとも文豪ならではの文章力表現性なのだろうか。
やっぱりこのアンソロジー面白いな。
某月某日。
ベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』を読む。
日本の女性の権利向上の熱意を持って日本国憲法草案の人権条項作成に関わった女性の自伝。
日本女性のために尽力してくれたのはありがたいんだけど、どうしても「家庭人としての女性」しか眼中になく、「女性は子供と家庭を持ってなんぼ」「女性も男性も結婚して一人前」な価値観をバリバリ感じてしまって、うっっっとなる。
ベアテがまだ22歳という若さの時のことだから、自分は結婚して子供を産んで家庭を作るのだと思い込んでいる、当たり前にそうなるだろうと思うまでもなく思っているんだろうな、という若さを感じる。
後年のインタビューではインタビュイーに「老人については書かれていませんね」と聞かれて「それは私が若かったからでしょうね、今だったら入れてます」と答えていた。生涯未婚だったら「未婚女性については書かれていませんね」と聞かれて「今だったら未婚女性のことも書いていた」と答えていたんだろうか。
これだけ愛に溢れた仲の良いお金持ちの家庭に生まれ育ったら強固な「家庭神話」を持つようにもなるよねと情状酌量(?)の余地はあるんだけど。
その時代においてベアテの「女性の権利向上」という思想は先進的で新しかったんだろうけど、今読むと「但し家庭人既婚者に限る」と付きそうな思想で、どれだけ同時代的には斬新でも後世からしたら視野狭窄なんだなと思うと、1人の人間にできること見えてるものなんてほんとにちっぽけだなと怖くなる。


