深沢七郎『楢山節考』を読む。
姥捨山の話だとは知っていたけど、そこから想像していたものとは違って、なんだか明るい。もっと悲惨であからさまに御涙頂戴ものだと思っていたのに。
たぶんこのお婆さんが捨てられるんだろうなというお婆さんがまず思っていたより明るい。「七十も過ぎているババアなのに歯が全部揃ってるなんて恥ずかしい!」と火打石で歯を砕こうとしているんだけど、それがちょっとコミカルですらある。
読んでて「やめてやめて!いたい!」となるけど、段々とお婆さんに共感してしまい、「そうだよね、嫁も旦那も死んでるのに自分だけ長生きしていつまでも健康なのは恥ずかしいよね」という気持ちになってくる。
貧しい村では長生きしたり子供がたくさん産まれるのが恥ずかしいらしい。自分はもう十分生きてきたのに、まだ生きるつもりで食べ盛りの若い人たちの食糧を自分が取ってしまっているという気持ちになってきてしまうのもちょっとわかる。捨てられることに意欲的になってきてしまうのもだんだんとわかってきてしまうから怖い。
しかしそういう思考の流れが怖いと感じる現代的な(?)感覚もしっかりとある。
今の私の感覚や一般常識で感情が動く小説の読み方と、小説の中の一般常識や登場人物の感情に共感して感情が動く小説の読み方ではどっちが作品を深く味わえるんだろう。
だいたい前者の読み方から後者の読み方になっていくんだけど、それでも前者の読み方を引き摺っていて、中途半端な二足の草鞋みたいな読み方になる。もっとどっぷりと後者の読み方で読めたら作品世界に入り込めて深いところまで行けそうなのになと残念な気持ちになる。
それほど長年染みついた自分の感覚や一般常識は拭い難い。
自分の一般常識や感覚と作品世界の一般常識や主人公の感覚の二足の草鞋になってしまう小説は、村田沙耶香作品によくあるものだ。
村田沙耶香の短編で、死んだ人の髪や皮膚をアクセサリーや衣服として身に着けるという話があった。読み始めた時はぎょっとしたし、おぞましくも感じたけど段々と美しさや崇高さを感じ出してしまい、自分の感覚の変わりやすさにぞっとした。
美しさや崇高さにどっぷり浸かっていたら我に返ってそっとすることもなかっただろうに。
村田沙耶香作品は正常が狂気に狂気が正常になる瞬間がたくさんある。その二つの反復横跳びをしているような。
『楢山節考』と村田沙耶香作品って共通点あったんだ!という意外な発見があった。
その後に同時収録の「白鳥の死」を読んだら、「楢山節考」のおばあさんはキリストや釈迦を合わせたような人物だと書いてあった。そんなこと思いもよらなかった…。滑稽だけどいじらしいお婆さんで微笑ましく、面白おかしいけど悲哀がある物語だと思っていた。むずい。宗教とか信仰心とか無償の愛とか私には本当に難しい…。
