いきなり違う本の話になるが、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』には、死を身近に体験した者にしか見えないセストラルという馬が出てくる。ハリーもそれまでは見えていなかったけれど、死を身近に体験することで見えるようになるし、前から見えていたという友達の知らなかった一面、影を知る。
ハリー・ポッターシリーズにはそんなふうにいつも死の影がある。
死を身近に体験すると、今まで見えなかったものが見えてくるというのは魔法界だけに限らない。死をきっかけにそれまで知らなかった死んだ人の一面とか人生とか、自分の生とか人生とか、もっと抽象的な生とか死が否応にも見えてくる。
第175回芥川賞候補作、村司侑の『ソリティアおじさんがいたころ』は身近な死によって見えてきたものを書いた作品だ。
主人公の職場でソリティアおじさんと呼ばれていたかつての上司が死んだ。その上司は彼氏の師匠といってもいい人だけど、自分との関わりはそれほどなく、直接関わった思い出はひとつぐらい。あとは仕事中にソリティアをしていた姿しか記憶にないぐらいの人。
例えそんな微妙な距離感の人であっても、その死をきっかけにして初めて見えてくるものがある。
通夜に参加することで、ほぼソリティアおじさんとしか認識していなかった人の仕事以外の人間関係だったり家族のことが見えてきて、考えたこともなかったソリティアおじさんが仕事中にソリティアしかしなくなった過程に思いを馳せることによって彼の人生が浮かびあがる。誰かが死んだ途端にその人の生活や人生の存在感が増し、アディショナルタイムみたいに死んだ人が生き始める。死にはそうした作用がある。
ソリティアおじさんの通夜に参列した主人公は、「ソリティアおじさん」としての一面しか知らなかった人間の人生の奥行に触れたのだが、通夜の翌日風邪をひき会社を休む。そうすると今度は自分の人生の行き詰まりが浮かび上がってくる。会社の休み家でソリティアをすることによって。
ソリティアをやってみてもすぐに行き詰る。すぐにはクリアできない。それは自分の人生について考えざるを得ないきっかけでもあった。自分の人生の行き詰りを感じ取る。そうして彼女は恋人との別れを決意する。
要は、手詰まりになったら「もとに戻す」ボタンで巻き戻しましょうと、身も蓋もない。
もう戻れない。おなじやん。別れんでも、別れても。手詰まり。行き詰り。鼻詰まり。
ソリティアがきっかけで?そんな簡単に?と思うかもしれないが、それまでに積み重なっていた諸々があったのだろう。
彼は優しい。優しく看病もしてくれる。風邪をひくとものを考えられなくなるし、気が弱くなる。そんなタイミングで優しく看病してくれているのに、別れを切り出せるって案外すごい。逆にそれだけ「別れない」に傾きそうな状況でも「別れる」に振り切るほどの積み重ねがあったんだろう。
この主人公が多用する言葉に「知らんけど」がある。思考をある程度重ねても結局「知らんけど」で全部ちゃぶ台返しをしてしまう。あまり深くものごとを考えない。
手詰まりになったのもその「知らんけど」がひとつの要因なのではないか。彼女には「知らんけど」と「手詰まり」の間のグラデーションがない。「知らんけど」を繰り返し、知らないうちに手詰まりになっていた。「知らんけど」の積み重ねで深く考えずにずっとスルーしてきたことがソリティアおじさんの死をきっかけに押し寄せ、大きな壁として立ちはだかり行き詰ったのではないか。一個一個は小さなレンガだったかもしれないのに、いつのまにか袋小路の壁になり行き詰っていた。
知らんけど知らんけどを続けて他人事みたいに流してきて結果、いつのまにか袋小路の手詰まりになっていたのではないかと思うと、怖い。
ソリティアおじさんがいなかったら、ソリティアおじさんが死んでいなかったら行き詰まりに気づくこともなかっただろう。そうだったら一体どうなっていたのか。行き詰りでどこにもいけないまま息絶えていたのか。知らんけど。
