本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子

みんながみんな、自分のしたいことだけ、無理なくできることだけ、心地いいことだけを選んで生きて、うまくいくとは思えない。したくないことも誰かがしないと、しんどくても誰かがしないと、仕事はまわらない。仕事がまわらなかったら会社はつぶれる。そんな会社つぶれたらいいというのは思考停止がすぎる。そう思う。けれど、頭が痛いので帰ります、と当たり前に言ってのける芦川さんの、顔色の悪さは真実だとも思う。

 

できる人ができない人をカバーすることによって、できる人の負担が増える。

それを「不公平だ!」とか「ずるい!」と言うのは弱いものいじめをしているようで後ろめたい。

でもそう思っているのが自分だけじゃないとしたら。

ほかにもそう思っている人がいたら。簡単に悪意は増殖して、弱いものいじめは始まってしまう。

 

芦川さんは体が弱くて早退することも多いし、クレーム対応が苦手。

彼女ができないこと苦手なことは誰かがやらなきゃいけない。

彼女が声高にできないことを主張するわけでも、フォローを頼んでいるわけでもないけど、周りの人はみんな「芦川さんはそういう人」だと思っていて、彼女はなんとなく守られている。

できる側の二谷や押尾は彼女を取り巻くその空気がなんとなく腑に落ちないでいる。

 

芦川さんも誰かに負担をかけていることはわかっているから、早退のお詫びにケーキやクッキーを作って配って借りを返そうとするけど、二谷や押尾は食べ物に関心がなくて、そんなものでは持ちつ持たれつにならないと感じているし、むしろ押し付けがましく感じている。

やっぱり2人は腑に落ちない。

 

 

私も体が弱いので、誰かに負担をかける芦川さんの立場もわかる。

でも人より気配りができるところがあるので、できない人の分も色々と気働きをしなきゃいけないという、できてしまう人の負担やわずわらしさもわかる。

できない人へのやり場のない憤りや苛立たしい気持ちも。

自分の労力ばかりが大きくて、他の人はそれにのっかってるだけで、自分ばかりが損をしているのではないかという気持ちも。

でもそれを誰かに言ったところで、できない人はできないしできる人はできるから、結局できる人がやるしかないということも。

 

芦川さんは持ちつ持たれつが成立している世界の住人だ。

弱くて可愛らしくて、小さな声で話してもその声を拾ってくれる距離に誰かしらいて、みんなに守られていて、だけどしてもらってばかりではなくて、自分もその人たちのためにできる何かがあって、もらったものをお返しできていると思っている。

持ちつ持たれつができている、そんな優しい世界の住人。

 

でも持ちつ持たれつはそんなに簡単には成立しない。

補い合うということはそんなに容易いものじゃない。

できることのジャンルは違えど、できることの能力が同じレベルでないといけないし、その能力を求めてなかったら意味がない。

 

借りを返してるつもりの芦川さんのケーキは、二谷や押尾からしたらお返しにもお礼にもなり得ないものだし、彼女はそんなこと思いもしないだろうけど、「おいしいね!こんなの作れるなんてすごいね!」と言わなきゃいけない空気が負担になっていたりする。

 

でも持ちつ持たれつは成立している、人は補い合っていると思わないとやってられない。

 

自分ばかりが損をしているような気ばかりしてしまうけど、自分でも気付かないうちに、知らないところで誰かが私の不出来をカバーしてくれているのかもしれない。

そう思うことでどうにかこの「不公平じゃないか」「あの人ばっかりずるくないか」という気持ちを公平にならしていくしかない。

それが本当であってもなくても。

誰もが少しは感じることであっても、口にすればすぐに悪意に変わってしまって冷酷な人認定を受けてしまうことだから。

だから、たとえそれが幻であっても優しい世界の住人にならなくては。

 

 

2022年上半期の本ベスト10

 

2022年上半期は81冊の本を読みました。

その中でベスト10を決めたのでそれぞれの本の感想をまとめたいと思います。

 

ツイッターはてなブログに書いた感想を読み返してみると、その時の感情が蘇ってきたり、いい本だったことは覚えていても詳しい感想は忘れていたりしたので、自分の用のメモとして残しておくのもいいかなと思いまして。

 

特に『ケアの倫理とエンパワメント』の感想は、ちょっと読んだだけでは自分でも何書いてるのかわからなかった…。

「いい本だった!」「面白かった!」と思っても内容が頭に入ってないのはあんまり意味がないし、ちょっと勿体無い。

脳みその中にインストールするつもりで、ちゃんと再読しよう。

 

 

 

『ケアの倫理とエンパワメント』小川公代

文学をケアという視点から、またケアを文学を通して読み解く。

ヴァージニア・ウルフオスカー・ワイルドのところが特に面白かった。

 

自立するという「男らしさ」を持ちながらも、敵対や分断という負の「男らしさ」を抑制し、間主観的で共感に基づく多孔的な自己であることは私自身なりたい姿だった。

互いに依存することなく自立しているけど、間主観的で共感的でケアする側とされる側にはっきりと二分されることなく、どちらか一方にケアの負担が過剰にのしかかる関係でもなく、ケアが循環していくような、持ちつ持たれつがまともに成り立ってる関係も理想で憧れる。

 

でも他方で、持ちつ持たれつでなくてもどちらか一方がケアするばかりで成り立ってる関係もどこかにあるだろうな、それはどういうバランスで成り立っているのだろうなとも思う。

 

 

 

『読者はどこにいるのか』石原千秋

文学論を読みたいなと思って手にとった本だけど、文学部は花嫁学校的な存在だったの?と驚いてフェミニズムの本を読んでるみたいで面白かったし、ほかにも構造主義とか言語論的転回についても勉強できたのもよかった。

でもその知識が全く自分のものになっていないのでまた読み返したい。

難しいことをわかりやすく説明してもらって、面白い!と思ってもその知識も自分のものにするのってなかなか難しい…。

 

こちらの本については、はてなブログにも書きました。

 

 

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『それを読むたび思い出す』三宅香帆

書評家三宅香帆さんのエッセイ。

小説家ではない人の、でも本をたくさん読んでいる人のエッセイが好きだ。

本についてのエッセイは、なぜか読む前から甘いような切ないような気持ちになってしまう。

 

形容詞を並べたてる感想は実がないかもだけど、男前さもドライさもありつつ、しなやかで切なくもある文章が、ここにある感性が好きだった。

本の話が好きだし、本を読んで湧き出てきた誰かの記憶や感情の話も好きだ。本の話よりもっと好きかもしれない。

 

本を読んで、こういうところが面白かったここのシーンが好きだったと感想を言うよりも、私も同じこと考えてた私にも同じような思い出があって、とかそんな自分語りを私はしたいのではないかと思い始めていて、だけどそんな自分語り誰が必要としてくれるんだろうと思う。

だけど私は、本が好きな人のそんな自分語りが読みたい。

そんなことに改めて気付かせてくれた本でした。

 

 

 

 

『白い薔薇の淵まで』中山可穂

好きな恋愛小説としてあげてた作品はどれも、のほほんとした柔らかな両思い小説ばかりで、こんなに苛烈なものはなかった。

 

苛烈な恋愛小説って、登場人物が自分がしてる恋に酔ってるように見えて、どこかナルシシズムを感じてしまうから引いてしまうこともあるけど、この小説はそんなところが全くなかった。 展開に違和感やベタを感じはしたけど、兎に角文章が綺麗。

 

濃厚で綺麗で、こんなに身も心も憔悴するほど苛烈に誰かを求めるようなことは私には起こらないだろうけど、この小説が読めたからそれでいいな、と思えた。

自分の人生には起こらないであろうことを追体験できる。

これぞ読書の醍醐味。

 

 

 

 

『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』川本直

久しぶりに小説を読んでいるのではなく、小説に読まされている感じがして、スピード感と吸引力がすごかった。

固有名詞がいっぱいで情報量も多いのに立ち止まらせることがない。引っ張られるので慌ててついていく、巻き込まれていく。

 

タイトルの通り、ジュリアン・バトラーの人生が綴られていくのだけど、実在の人物も多数登場する。

架空の作家ジュリアンが虚実入り混じったごった煮の中で読者を翻弄し、舞い踊ってるのが楽しいし、わくわくする。

 

読んでいて『風と木の詩』とか『エドウィン・マルハウス』とか他の作品が浮かんできて頭が混沌としてくるのもよかった

読んでると他の作品の残像が重なってきて繋がりがでてくるの好きだ。

 

 

 

『平熱のまま、この世界に熱狂したい』宮崎智之

読んでいる人が束の間休憩できる椅子を用意してくれるような文章や居場所を作ってくれる文章というものがあるけれど、この本がそうだった。
弱さを見せることが恥で、先に見せた方が負けで淘汰されるような世界ではなくて、誰かが弱さを見せたからこそ、別の誰かもそれを見せられて、お互いのそれを補えるような優しさが広がる世界であったらいい。

 

弱さを先に見せた方が敗者になるのではなくてより良い世界への功労者となるような。
その方がふくよかで潤いのある世界にきっとなる。
弱さは豊かさの一つでもあるのだから。

 

 

 

『博物館の少女』富安陽子

古道具屋を営む両親を相次いでなくしたイカルは、ひょんなことからその目利きをかわれ、上野の博物館で助手として働き始め盗まれた黒手匣の行方を追うことに。
怪異といってもそんなにおどろおどろしくないし謎も割と本格的。

 

明治時代の少女が主人公で明治の風俗や上野あたりの景色が書かれてるというのも魅力だけど、イカルが身を寄せることになったお家の登勢の義理の息子が河鍋暁斎というのも心躍る設定だった。


河鍋暁斎の娘がイカルと同年代でそこの友情が書かれてるのもいいし、その子が暁斎の弟子で将来有望というのも良い!

すごく面白かったので続編希望!

 

 

『酒寄さんのぼる塾日記』酒寄希望

ぼる塾はお笑いトリオだと思われがちだけどトリオではなく、表に出ているのが3人なだけでいま育休中のメンバー酒寄希望さんもいれた4人組のお笑いカルテット。

そんな酒寄さんがぼる塾やぼる塾メンバーについて書いたこのエッセイが笑えて泣けてすごい良かった。

 

「笑って泣ける」なんて言い方されるものって斜に構えて見てしまいがちだけど、この本は本当にその言い方がぴったりだった。

 

お互いのちょっとずれたところを笑って柔らかく受け止めて、お互い思って思われて、足りないところを補い合って、そんな友情の両思いがあったかくてじんわり泣けてきてしまう。

 

ぼる塾のメンバーそれぞれのことが好きになって、その好きって気持ちでまたあたたかくなれる素敵な本でした。

 

 

 

『幻の女』ウイリアムアイリッシュ

上半期はミステリも何冊か読んだけど、これが一番面白かった!

妻殺しの容疑をかけられた男のアリバイ証人探しがメイン。

 

妻とデートするはずだったのにドタキャンされたので、その空いた穴を埋めてくれるデート相手を適当にナンパして数時間過ごしたので、犯行時間もその人といた。その人が証明してくれるはずなのに、いかんせん行きづりの相手なのでどこの誰かわからない。

2人で一緒にいるところを見ているはずのバーテンダーやレストランの店員も「いや男性ひとりでしたけど?」とか言い出す。

さぁどうする??という話。

 

面白かったし、かっこよかった。

誰が妻を殺したのかのフーダニットものなんだろうけど、とりあえず真犯人探しは脇に置いといてのアリバイ証人探しが滅法面白い。

文章が美麗秀麗でかっこいいし、表紙もかっこいい。

 

ミステリって一度気にいる作家さんがいるとその人ばかり追いかけてしまうから新規開拓って難しいけど、どんどん新しい作家さんにも挑戦していきたいなぁ。

ミステリってシリーズものが多いのが新規開拓しにくい原因でもあるけど、これは単発ものだし、おすすめです。

 

 

 

『N/A』年森瑛

1個前の記事で感想を書いたのでそちらを読んでほしいのですが、こちらもよかった。

 

自分の気持ちと相手の気持ちの狭間で言葉が揺れる感じや、何を言っても心もとなくてどの言葉を選んでも言いたいこと言ってあげたいことを言い得てないような、気持ちと言葉の乖離に感じるもどかしさが、そのまま言葉になっていた。

曖昧なものを曖昧なまま、もどかしいものをもどかしいままそのまま書けるって実はすごいことなんではないか。

 

 

 

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こうしてベスト本を振り返ってみると、小説もあるし評論もエッセイもあるしなかなかバランスよくいい本に出会えた6ヶ月だったのかも。詩歌がないのがちょっと気になるけど。確かにあまり読めてなかったな。下半期はもうちょっと読もう。

下半期も読みたい本にどんどんチャレンジしていい本に出会えますように。

『N/A』 年森瑛

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専門家や当事者が教えてくれた正しい接し方のマニュアルをインストールして、OSのアップデートをしたのにも関わらず、情報の処理が追いつかない翼沙のハードウェアは熱暴走を起こしていた。押し付けない、詮索しない、寄り添う、尊重する、そういう決まりごとが翼沙を操縦していて、生身の翼沙はどこにもいなかった。翼沙から出た言葉は何一つ無く、全ても置き去りにして、マニュアルを順守するプログラムだけが動いていた。

 

子供の頃親の本棚にある育児書が目に入る度に嫌な気持ちになっていた。

親は私のことを私という個人ではなく、ただの「子供」としてみていて、その育児書通りに、誰かの言葉に従ってその言葉に私を当てはめ、私もその通りに育たなければいけないのかと暗い気持ちになった。

まるで自分がクリアしなきゃいけないゲームで、育児書がその攻略本のように感じていた。

 

たぶん翼沙に対してまどかが感じていたものもそんなものだったんだろう。

 

自分で考えたオリジナルな言葉や態度では相手を傷付けてしまう可能性、そして嫌われてしまう可能性があって、自分の感性、経験、価値観では相手の心に届く言葉が編み出せない。

 

だから自分にはわからない当事者の気持ちに寄り添う言葉や態度、禁句や避けるべき態度を調べるけれど、それらを覚えてその人の前に立ったところで、上部をなぞるだけの浮ついた言葉にしかならなくて、その人を一つのカテゴリーに収めて決めつけることになる。

 

まどかが彼女も思いもよらない危機に瀕していること知って、それをまどかが傷つかないように教えたい、その危機から救いたいと翼沙は悩んで苦心し、それが調べて予習したものでも、そうしてまどかに選んだ言葉は、まどかに届かなかった。

 

翼沙は自分がものを知らないということを知っていたし、自分では気づいていないけど偏見や差別を持っている可能性もあるって思っていたんじゃないか。

だからどうすればいいのか、何が正しくて何が間違いなのか調べたんじゃないか。

というのは私の深読みだろうか。

 

 

 

Twitterに流れてきたそれなりにバズってるツイートに、いい話だなぁとか面白いなぁと思っていいねしたけど、それが後になって炎上して、いつもその思考や教養の深さに関心している人を苦言を呈していたりして、その人の言うことがもっともだとしか思えなくて、自分が偏見や差別も持っていたことに気づかされて恥じ入ったことが何度かあった。

そうしたことが重なると私がいいなと思ったツイートでも、誰か尊敬している人がいいねを押したツイートにしかいいねを押せなくなる。

私は私の感性や価値観だけで何かを承認することができなくて、誰かが承認したもの誰かのお墨付きを得たものしか承認できなくなる。

 

私はものを知らないし、思いもよらない偏見を持っていて無自覚に差別をしているかもしれない。

そう思っていなかったら、自分で考えたことを自分の言葉で自由に感情のままに発することができたかもしれない。

 

自分がものを知らないことを知ってる時点でその人は賢いのだと古代の哲学者はいっていたけど、知らないからこそ他の人の知に乗っかって言葉を借りてきて、誰にも届かない言葉を発して空回りしてそれでも賢いといえるのだろうか。

何も知らないし、不用意な発言は人を傷つけるからと、何も言わずどんな人をも距離を取る人は賢いだろうか。

 

 

翼沙からでる言葉がオリジナルなものでなかったこと、それが翼沙と自分ならではの関係性からでる言葉じゃなかったことにまどかは失望してしまって、その気持ちはわからないでもないけど、その言葉の背後にあるその時の翼沙の精一杯に気づいてくれたらいいな、と思う。

 

ありきたりな言葉や、誰かから借りてきた言葉でも、よく目を凝らせばその背後にその人の精一杯の優しさや誠意が見えることだってある。それを見過ごさないで欲しい。

 

 

 

読書日記 言葉が世界だ

こういう例を知ると、私たちは言葉を通してしか世界を理解できないと考えたのではまだ不十分で、「言葉が世界だ」と考えざるを得なくなってくる。「世界は言語だ」とすると、言葉を使う人間がいなくなることは、「世界」がなくなることと同じだということになる。これが言語論的転回以降の言語観である。

第二の性』で一番有名なフレーズは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」だろう。「女に生まれる」と考えるのが本質主義の立場で、「女になる」と考えるのが構築主義の立場だ。したがって、女性は「女らしく」なければならないという価値観は、文化がそれを変えることを望むなら変わるということだ。だから言語的転回がなければ、フェミニズムはおそらくここまで発展しなかっただろう。

 

昨日に引き続き、石原千秋『読者はどこにいるのか』を読んでいる。

 

 

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昨日読んだ第1章にフェミニズム的視点からも語られそうな文学部の話が出て、たまたまだろうと思ってたけど、第2章にも出てきた。

石原千秋って漱石研究の人っていうイメージしかなかったけど、そんな一面もあったんですね…。

 

単純に文学について学ぼうと思って手にとったこの本だけど、構造主義とか言語論的転回についても学べてすごく面白い。

 

「言葉によってしか世界を理解できない」とは感じていたけど、そこから「言葉が世界だ」までは行き着けていなかった。

でも「言葉によってしか世界を理解できない」より「言葉が世界だ」の方がまだ世界の把握の仕方を自分次第で変えていけそうで、気持ちが楽になる。

 

ずっと語彙を豊かにしたい、豊かな言葉を使えるようになりたいと思っていた。

今、「言葉が世界だ」という言葉を知って、私はずっと世界を豊かにしたかったのだなと気づいた。

言葉が豊かになって、大まかな把握ではなくて細部まで理解できるようになったら、当然のように世界の嫌な側面も細かくなって解像度が上がって辛い思いをすることも増えるだろう。

でもそれだって必要なことで、世界のよい部分だけを豊かにしたいとは思わない。

言葉を豊かにして、世界を深く豊かにしたい。

それができた時、どんなものが見えてくるだろう。

その世界で生きていることが、生きていくことが何かいいものに思える世界だといいのだけど。

 

 

 

 

 

『太宰治の辞書』 北村薫

本は、いつ読むかで、焦点の合う部分が違って来る。

 

太宰治が使っていた辞書はどんなものなのか、「女生徒」の中に出て来るロココに関する記述は、太宰がその辞書から引いたものなのか、それとも太宰オリジナルのものだったのか。

この小説のタイトルを初めて見た時は、ナポレオンの「吾輩の辞書に不可能はない」的な頭の中にある辞書のことかと思ったら、実在する辞書だった。

 

太宰治の辞書をめぐる文学研究といってもいいこのミステリーは「円紫さんと私」シリーズの最後の作品。

このシリーズは全部で6作あって、最初の3作は人間の暗部を浮かび上がらせるような日常の謎を追うミステリーだったけど、最後の3作は芥川龍之介の「六の宮の姫君」や太宰治の「女生徒」のなかにある謎を追う文学研究ミステリーになっていった。

 

実はそれがちょっと物足りなくて、日常の謎ミステリーが読みたいんだけどなぁと思っいた。

太宰治の辞書』も文学研究ミステリーで私の求める日常の謎ミステリーではないんだけど、『六の宮の姫君』みたいに、これは論文を読んでるのかな?と思わせるようなものではなく、もっと感情というか情感が書かれていて、小説の雰囲気がちゃんとあった。文学研究と小説の配分がよかったのだろう。前の2作よりちゃんと楽しめた。

〈私〉が太宰治が使っていた辞書と同じものが所蔵されている群馬の図書館に行く場面では、これは旅行記かな?と思わせる風情もあったけど、ちょっと前までは退屈に思えただろう、旅行者の目線で駅や川や碑文を見る描写に旅情を感じて、そこも味わいながら読めた。

旅行記を楽しめるとか、旅情を感じるとか、「私も大人になったな」感がすごいある。

 

〈円紫さんと私〉シリーズの外伝と言ってもいいだろう「白い朝」という短編もすごいよかった。やはり私はこの人の書く情感が好きだ。

あるロマンスが書かれているんだけど、下手したらおじさんが女性目線を使って書く美化された気持ち悪い思い出話になりそうなのに、その気持ち悪さが全くなくて爽やかな読み心地で、この北村薫さんへの信頼度が増した。

たまにないですか、おじさんが書く女性口調が気持ち悪いとか、おじさんが書く都合よく美化された思い出が気持ち悪いとか。

この短編も女性の語り口で始まって、過去の話をし出したので、ちょっと身構えてしまったけど、全くそんなところがなかった。

 

そして、この本にはふたつのエッセイも収録されているんだけど、そのエッセイに書かれている文章が、私が感じた「旅行記」らしさを存分に含む文章で、内心ニンマリしてしまった。

主人公と作家自身が重なる部分を見つけると、微笑ましいというか、嬉しくなってしまう。

しかしフィクションのノンフィクションで、ここまで書き方が同じで、読み心地が同じ作家も珍しいのでは。

よくわからないけど、ここでも北村薫さんへの信頼度が増して、もっとこの人の作品

読みたいなと思った。

 

 

私はシリーズ最終作が出てから読破したけど、前作の『朝霧』からこの『太宰治の辞書』の間には17年もの月日があったようだ。『朝霧』で完結だと思っていたシリーズファンは嬉しかっただろうな。

太宰治の辞書』発売から7年が経とうとしているけど、もう続編は出ないのかな。出るとしたらまた文学研究ミステリーかな。そうだとしたら今度はどんな作品のどんな謎だろう。

期待しすぎないようにはしつつ、頭の片隅で微かに待っていよう。

また、〈円紫さんと私〉に会いたい。

 

 

みさき書房の編集者として新潮社を訪ねた《私》は新潮文庫の復刻を手に取り、巻末の刊行案内に「ピエルロチ」の名を見つけた。たちまち連想が連想を呼ぶ。卒論のテーマだった芥川と菊池寛、芥川の「舞踏会」を評する江藤淳三島由紀夫……本から本へ、《私》の探求はとどまるところを知らない。太宰が愛用した辞書は何だったのかと遠方にも足を延ばす。そのゆくたてに耳を傾けてくれる噺家。そう、やはり「円紫さんのおかげで、本の旅が続けられる」のだ……。

読書日記 良妻賢母と文学部

その結果、何らかのヒューマニズムとか人格であるとか、社会に対するある種の批評性を持つような「作者の意図」が想定されていた。つまり、社会的に価値のある「作者の意図」が想定されていたわけだ。これは、文学部がまだ女子学生の受け皿だった時代の、いわば無意識の要請でもあったのかもしれない。文学を学ぶことが良妻賢母的に人格を陶冶すると信じられていた、そして実際にそのように機能していたという意味である。

 

今日から読み始めたのは石原千秋『読者はどこにいるのか』

 

 

文章が読まれているとき、そこでは何が起こっているのか。
「内面の共同体」というオリジナルの視点も導入しながら、
読む/書くという営為の奥深く豊潤な世界へと読者をいざなう。

 

今年こそ文学論や批評やテクスト論とかそういう本いっぱい読むぞ!との意気込みのもと読み始めたのだけど、これが面白くて早速付箋が足りない。買いに行かなきゃ。

 

第一章を読み終った今、「文学部って花嫁学校的な存在だったの??!」という驚きと戸惑いでいっぱい。

文学論というよりフェミニズムの本読んだみたい。

 

「作者の意図」を読み解くことが文学部で学ぶことなら、花嫁学校である文学部を卒業した後、その「作者の意図」を読み解く技術は、「夫の意図」を読み解く技術にスライドしていくだろう。それはいずれ「社会の意図」を読み解く技術になって行くだろう。「文学を学ぶことが良妻賢母的に人格を陶冶する」ってそういうことですよね。

「文学部がまだ女子学生の受け皿だった時代」というのは、「高度経済成長期にあっては日本が近代化されてサラリーマンの比率が高まり、それに伴って専業主婦率が最も高くなった」時代だというのだからそんなに遠い時代ではない。

でも話だけ聞いてると、戦後の女学校とかの話なのかなと錯覚してしまう。女性は夫に帰属するもので、夫の意図を読みそれに従い、そうした態度によって社会に貢献するという古い女性像が思ったより古くなくて、しかもそうした女性を育成するのに文学が関わっていたとは。

 

これは最近ツイッターで炎上していた「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」っていう言を連想させる。

それほどに女に必要な勉強は良妻賢母になるための勉強だけど、あとはお遊びとされているんだな。今も昔もだいぶ昔も。

砂川文次『ブラックボックス』

くっだらねえな、と自分の夢想だかネットの押し付けがましいイメージだか両方に対して敵意を持つ。本当にそういう世界があるなら少しくらい見てみたい思いもないではない。どうせできないなら、しかし妙な希望を抱くよりもすっぱり諦めて小ばかにしているくらいの方が精神衛生上いいのだ。これはサクマの数少ない処世術のうちの一つだった。

 

第166回芥川賞を受賞した砂川文次『ブラックボックス』をやっと読んだ。候補作のうちに読んでおきたかった…。今回は候補作が全然読めてない。

 

砂川さんが芥川候補に選ばれるのはこれで3回目で、以前の2回は2作とも、砂川さんの元自衛官という経歴の影響か戦争を題材にしたものだった。

そのどちらもが戦争描写、戦況が軍事用語を多用した文で綴られて状況が掴みにくく、難解だった。

しかし今作の『ブラックボックス』は主人公のサクマが元自衛官という共通項はあれど、現職は自転車で都内を駆け回るメッセンジャーで、私にとって非現実ではない地平で起こる物語だったので、臨場感がありすんなり読めた。

私が軍事用語に詳しくて、ミリタリーオタクだったら前候補作2作とも楽しめたのかもしれない。

それくらい自転車に乗って走っている時の体に伝わる振動とか流れていく景色に臨場感があって没入しやすかった。

 

メッセンジャーとして自転車で都内を駆け回る描写で、物語の中にスルッと入っていけたからこそ、その後に綴られるサクマの「ちゃんとしなければいけない」「ちゃんとできそうにもない」という焦燥感や鬱屈も身近に感じられたのかもしれない。

そう考えると、まず間口の広い風景描写や共感度の高い身体描写で読者を引きつけてから、より深い内面描写に引き込んでいくっていうやり方はうまいなぁ。

 

サクマは元自衛官で今はメッセンジャーをやっていると書いたけれど、その間にもいくつも職を転々としていて、そのどれも辞めた理由は対人関係がうまくいかなかったというものだ。

というよりも、人と何かトラブルが起きた時、何か揉めた時に自分の感情を制御することができないからだ。自分の感情を抑えることができないので職を転々としてきたのが本当のところだろう。

転々とした先に行き着いたメッセンジャーという職業も若さを資本とした職業なので一生続けられる仕事ではないとサクマもわかっていて、だから「ちゃんとしなきゃ」とは思うんだけどその方法がわからずに鬱屈としている。そして作品の最後にはこれ以上転々としようもないところまで落ちてしまう。

 

世間一般の普通の人のようには人生が進まない、ちゃんと生きられない、社会に適応できない人、「普通」からこぼれてしまう人を書いた芥川賞受賞作は多い。前回受賞した宇佐見りん『推し、燃ゆ』もそうだったし、ベストセラーになった村田沙耶香コンビニ人間』もそうだった。

しかしこの『ブラックボックス』はその2作に比べて、明かりが見える終わり方だ。

 

今までちゃんとできない自分の性質やままならない人生に鬱屈し、ちゃんとしてる人の人生を小馬鹿にして過ごしてきたサクマが、ちゃんと人と関わって向き合って、自分の人生に他者を受け入れていこうとしていること、自分の感情ばかりに囚われ閉ざすことなく、他者との関わりにひらけていった終わりで、かすかに明かりが見えた。

 

まだこの作品と島口大樹『オン・ザ・プラネット』の2作しか読んでないけど、受賞したのも納得する作品だった。

もう今回の芥川賞は決まったけど、まだ面白そうな候補作はあるし、後の3作も読む。

砂川さんみたいに何度も候補入りした末に受賞する作家はたくさんいるし、未来の芥川賞作家の作品に出会えるかもしれないし。