本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『街とその不確かな壁』村上春樹

村上春樹の作品には、女性との別れによる喪失を書くものが多くある。

ノルウェイの森』もそのひとつで、この作品では女性との別れを他の女性で埋め、女性との別れで空いた穴を女性にケアしてもらうことでその傷を癒していたが、『街とその不確かな壁』では女性との別れで空いた穴を、他の女性で埋めようとするもうまく行かず、結局穴の空いた自分を自分で抱きしめることで、傷を癒し過去の呪縛から脱する物語になっていた。

 

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村上春樹の多くの主人公と同じく、『街とその不確かな壁』の主人公も高校生の時に失恋をする。

その恋の相手である〈きみ〉は心に何か問題を抱えている女の子で、主人公である〈ぼく〉に、高い壁に囲まれた特別な街の話をする。その街の中では「本当のきみ」がいて、〈ぼく〉の前にいる〈きみ〉はただの移ろう影のようなものであるらしい。

〈きみ〉と〈ぼく〉が街について話す中で街は具体的な細部を持ち、2人は街を作ることと手紙を交わすことで、深く関わりあっていくが、何度目かの待ち合わせで〈きみ〉は約束の時間より40分遅れてくる。

やっと現れた〈きみ〉は、いつもとは何かが違いずっと無言で、やがて泣き出す。

そんな姿を前にして、17歳の〈ぼく〉が思ったのは、

自分がもっと強ければいいのにと思う。もっと強い力できみを抱き、もっと力強い言葉を君にかけてあげられればいいのに——そのひとことで場の呪縛がさっととけてしまうような、正しく的確な言葉を。でも今のぼくにはまだそれだけの準備ができていない。ぼくはそのことを悲しく思う。

ということだった。

〈きみ〉が抱えている問題に自分は何もできない、強く抱きしめることも力強い言葉をかけることもできない。それは自分に準備ができていないから、未熟だから、そう思う。

その後も季節は巡るが〈ぼく〉はそうした言葉を見つけられないままで、〈きみ〉は長い手紙を残し、姿を消してしまう。

 

そうして〈ぼく〉は大きな失恋をし、その傷を完全に癒せぬまま、その失恋が生んだ大きな空白を埋められぬまま大人になる。

大人になり45歳の誕生日を迎えた〈ぼく〉は、〈きみ〉が話し2人で作った街がある壁の外の穴に落ちる。その壁の内側に足を踏み入れるには影を棄てなければならなかったので、影を棄て、街の中で本当の〈きみ〉と出会う。

街の図書館の中で夢読みという役割を得て、〈ぼく〉のことは覚えていない15歳の姿のままそこで働く〈きみ〉と緩やかな交流を続けるが、ある日影が元の世界に戻りたいと言い出し共に戻ることにするも、最後の最後で自分は残るといい、影だけ元の世界に戻ることになる。

 

元の世界に戻った〈私〉(ぼく)は、それでも街の中に未練があるのか、街の中の図書館と似た佇まいの図書館へと転職を決め、移住する。そこで出会ったのがコーヒーショップで働く女性だ。

〈私〉は彼女の店に通い、会話を交わし、店の外でも会うようになり、どんどんと距離を縮めていき、自然な好意を抱くまでになる。

しかしその彼女も、きみと同じく心に問題を抱えていた。〈きみ〉と違い、彼女は〈私〉にその問題の仔細を語るも、〈私〉は「その分野のことはとりあえず、できるだけ忘れるように努力しよう」言うことしかしない。その後、

カウンターの上に置いた私の手に、彼女が手を重ねた。五本の滑らかな指が、私の指に静かに絡んだ。種類の異なる時間がそこでひとつに重なり合い、混じり合った。胸の奥の方から哀しみに似た、しかし哀しみとは成り立ちの違う感情が、繁茂する植物のように触手を伸ばしてきた。私はその感触を懐かしく思った。

と、2人の心が重なり合う親密なシーンが書かれるが、それも一瞬のことで、〈私〉の心はすぐに、その日の昼頃から心に引っかかっていた問題、思い出せずにいたロシア五人組の最後の1人は誰かという問題に立ち返る。彼女が自身の問題を話し、内面を吐露している間も〈私〉はずっと、ロシア五人組のことを考えていた節がある。彼女が長年抱えていた問題よりも、昼から気になっていた問題の方に意識を捕らわれている。

心のどこかでは別のことを考えていて、彼女が泣いていることにもすぐには気付かない。気付いた時には彼女は泣き出していた。〈私〉は泣いている彼女の肩に手を置くが、そのやり方はすぐ前のシーンで手を重ねた時と違って、ただ物理的に置いているだけのようにも見える。

 

〈きみ〉が泣いた時と彼女が泣いた時では、〈ぼく〉(私)の対応が明らかに違うが、それは相手に対する熱量の差だけではなく、〈私〉が失恋をし大人になり、誰かが抱える問題を解決するような言葉などないということ、「そのひとことで場の呪縛がさっととけてしまうような、正しく的確な言葉」などないと知ったからだ。〈私〉の失恋を癒してくれるような的確な言葉をかけてくてる存在がいなかったことと同様に、自分も彼女の問題に対してかける言葉がないことを知っていて、「忘れるように努力しよう」と言うことしかできないからだ。

私が彼女の手を握りながら感じた「胸の奥の方から哀しみに似た、しかし哀しみとは成り立ちの違う感情」とは、正しく的確な言葉を持たず、彼女に寄り添うことのできないという無力、孤独ではないか。

 

人と人が向き合い寄り添うことが容易ではないことは、

私が求めているのは彼女のすべてではない。彼女のすべてはおそらく、今手にしている小さな木箱には収まりきらないだろう。私はもう十七歳の少年ではない。その頃の私は世界中のあらゆる時間を手にしていた。でも今は違う。私が手にしている時間は、その使い途の可能性は、かなり限られたものになっている。今の私が求めているのは、彼女が身につけた防御壁の内側にあるはずの穏やかな温かみだった。

という〈私〉の内省からも伺える。ただでさえ人が人と向き合うことは難しく、全てを理解することはできず、自分の全てを賭けて寄り添うことはできないのに、〈私〉はもう若くはなく手にしている木箱は小さく、時間の使い途は限られている。〈私〉ができることはもう少ない。

それでも〈私〉は防御壁の内側にあるはずの彼女の温かみを求めている。しかし、壁の中の街にいる〈きみ〉に、自分の半分が捕らわれたままで、〈私〉は彼女と向き合えるだろうか。

〈私〉が再び街の中で目覚めるのは、この内省のすぐ後だが、この内省と街で目覚める場面の間には、ガルシア=マルケスの小説の一場面が挿入されていて、そこには「危険な渦に誘い込もうとしている女の亡霊」が出てくる。これは女の亡霊が、街の中にいる〈きみ〉を表し、危険な渦に誘い込まれてしまった〈私〉を暗示させている。〈私〉は過去に捕らわれ〈きみ〉に捕らわれたもう半分の自分を救いに街へと戻ったのだ。

 

再び街の中で目覚めた〈私〉はそこで、少年と出会う。この少年は、実際の世界で〈私〉が再就職した図書館の常連で、〈私〉から街の存在を聞いており、街へ行くこと、夢読みの仕事に就くことを熱望していたが、少し前から行方不明になっていた。

少年はサヴァン症候群の持ち主で、両親や兄弟からの理解を得られず、学校でも上手くやっていけない孤立した存在だ。誰からも理解されず、心のこもった交流をすることもなく、唯一交流のあった人物とも死別し、この少年は、人は所詮独りであるということを身に染みて理解している存在といえる。

そのことは、一度目にした本は全て覚えてしまうというサヴァン症候群の特徴になぞらえて、〈私〉が少年のことを「究極の個人図書館」と呼んだこと、「人が未だ足を踏み入れたことのない漆黒の暗闇に、誰の目に触れることもなく堂々と屹立している」と言い表したことからも伺えるだろう。

少年は、人は独りであることを知る究極の個人なのだ。

 

少年と〈私〉は街の中で一体化し、共に夢読みの仕事をする。少年は古い夢の語る内容を〈私〉よりもよく理解し、〈私〉は少年よりもうまく古い夢に共感を示し、温め安らぎを与えることができる。彼ら2人は「お互いの欠けている部分、足りない部分を補完し合う共同体」として夢読みの作業にあたることになり、それは円滑に進む。

そうした共同体が築けたのは、少年が究極の個人であること、〈私〉が少年に対して〈きみ〉の時のように依存していない、行方不明になっても大きな穴が生ずるほど入れ込んでいないこと、〈彼女〉との関わりで他人には自分の穴を埋めることができないと実感したことが影響している。〈私〉は少年の前では、自立した個人でいられたのだ。

自立した個人と個人だからこそ、お互いの欠けている部分足りない部分を補完し合う共同体が作れるということを、少年と夢読みの作業を通して経験する。

少年はそうした共同体にのあり方について〈私〉に示しただけでなく、自分で自分を受け止めることの重要性、セルフケアの重要性を説く。実際の世界に戻り現実を生きることにした〈私〉に向こうにいる自分の分身を信じること、もう1人の自分が受け止めてくれることを信じることが命綱になると話し、〈私〉は実際の世界へと送り出される。

 

17歳のぼくはきみを救うこと、きみに寄り添う言葉を見つけられると思っていた、だけど人が人を救うことなどそもそもできなかった。それでもきみのために何かできたのではないかという思いが残り、45歳になってほんとうのきみがいる街へ行った。ほんとうのきみはぼくのことを覚えていなかった、きみのためにできることはなかった。そして半分だけ、影だけは実際の世界に戻ってきた。コーヒーショップの女性との関わりの中で、人が人のためにできることは限られていること、他人の手が届く範囲は限られていることを実感した私は、まずは自分が自立するため、自立した自己で他者と関わるため、過去に囚われた自分を取り戻しに街の中へ戻る。そこで究極の個人として屹立する少年と共同で夢読みの仕事をすることで、支え合う補い合うということはどういうことかを知る。少年に、自分の分身を信じること、もう1人の自分が自分を受け止めてくれることを信じるように促され、実際の世界へと送り出される。それが『街とその不確かな壁』という物語だ。

 

大きな喪失を経験し、抱えきれない程の傷みを抱えている時に、まるごと私を救ってくれる他者はいるかもしれない。でもそうした他者に出会える確率は残念ながらとても低い。人は人の傷みに寄り添えない、人が抱えてる問題や穴に寄り添えない、そこから救い出してもらうことなど簡単に期待してはいけない。だから自分で自分を救うしかない。

はなから人に癒してもらおう支えてもらおうとするのではなく、まずは自分で自分を救うしかない。悲しみの底では他人の手は届かない。悲しみの底にいる自分を自分で抱き留め、自力で他者の手が届く範囲まで浮上しなくてはならない。

そうして悲しみの底から浮かび上がる力がある人こそが、他者と足りない所を補い合い支えあえるような共同体を作ることができる。そうした共同体の中でこそ、悲しみの底に沈んだままの手に負えない傷も徐々に癒えていく。

 

ノルウェイの森』では女性との別れによる喪失をすぐに別の女性で埋め、自分1人の力で自分の傷を癒すことがなかった。『街とその不確かな壁』では女性との別れによる喪失、傷ついた過去に囚われる自分を自分で救いに行き、受け止める。

その後〈私〉はどうなるのか、街から帰ってきた〈私〉は〈彼女〉とどう関わっていくのか。それはわからない。

だけど、この小説は、喪失を経験しその喪失から再生しても、また他者との繋がりを求めるという、傷ついても全てを理解できなくても他者との関わりを希求せずにはいられない人間のあり方と、依存からの自立、自立した個人と個人との共同関係のあり方においてのセルフケアの重要性を提示している。